2010年 4月 15日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉2 古水一雄 「第三」

   (1)
     
  明治三十二年懐中日記「第三」  
 
明治三十二年懐中日記「第三」
 
  春又春の65巻の日記およびその他の資料が現存するのは、母・徳の強い願いによるものである。「これらの日記や資料は、いつかは陽の目を見る日が来る」と徳は家人に語り、代々引き継ぐよう申し渡していたということである。
  6代目庄兵衛(幼名信一郎)が平成9年に盛岡市教育委員会に全資料を寄贈し、今日まで盛岡てがみ館に収蔵されてきている。
  さて、本題の日記に入ろう。
  日記には春又春によって後年表紙に朱書きの通し番号が付けられているが、「第三」とだけ表紙書きされたこの日記には番号はない。さらに、番号が付けられる前に第一・第二と称す日記はすでに春又春によって破棄された。「第三」は残された。
  この「第三」から『春又春の日記』を始めることを訝(いぶか)る読者もあるかと思うが、「第三」には、表紙に明治35年3月14日起稿と記されていて、春又春の高等小学校時代の日記であることが分かる。
 
  「明治三十二年懐中日記」一冊/余ノ日記ノ始メナリ/下ニハソノ思ヒ出或ハ批評ナリ
(一月一日)
     ─一月     
   一日─早起、身ヲ清メテ皇 
     ─城ヲ拝ス   
     ─盛岡高等小学校ニ登
     ─校、松尾某第七室  
     ─第四学年総代トナリテ
     ─謹而賀新年ト云フ  
     ─「小国民」見、大付録ア
     ─リ
    (中略)
(一月五日) 
   五日─「太陽」見ル 
     ─かるた會ス  
     ─ カルタ會夜更ク
     ─ ルトモ知ラズシテ
     ─友君ノ曰ク  
     ─ 新年ヤカルタニ 更
     ─右二句「文藝倶楽部」
     ─ 投ズ     
     ─[下段]コノ時代ノ野心
     ─笑フニ堪エタリ
    (中略)
(十五・十六日)
   十五─庄四郎袴着  
     ─田植     
     ─八幡神社詣  
     ─硯石水氷ル  
   十六─二階学校ヲヒラク
     ─會員幸一郎君 
     ─ペコペコ君   
     ─[下段]ペコペコとは
     ─櫓古人(※1)の事哉
     ─  三郎君  
     ─ イシ君   
     ─ 先生余    
         雲軒(※2)公
  【※1】「ろこじん」は次弟・庄次郎のあだ名、【※2】「うんけん」は8歳年上の親せきで店員
               (後略)
 
     
  春又春の母・徳(佐藤和子氏所蔵)  
 
春又春の母・徳(佐藤和子氏所蔵)
 
  日記を書き始めたのは高等小学校4年生、春又春14歳の元旦からである。
  注目したいのは、14歳にして「小国民」「太陽」「文藝倶楽部(ぶんげいくらぶ)」といった雑誌に目を通していたことである。
  さらに驚いたことには、句作を行い投稿までしているのである。当時の文学愛好者としてもかなりの早熟といえよう。
  これを考えるに、生家が書籍を扱う店であって、教養人であったらしい父・喜助(きすけ)の読み古したと思われる雑誌をもらい受けて読むという家庭環境の中で育ったことを意味する。
  ところで、二階学校の生徒は次弟や三弟それに近所の子どもである。
  この二階学校は、春又春本人の学習意欲を高めたばかりか、文学的な素地をも養う場となっていたと思われる。それは、雲軒が盛岡で新派の俳句を早々に取り入れた人物であることによる。そしていずれの生徒も後年短歌や俳句に親しんでいる。
  二階学校はまた、兄弟たちの学業にも大きな影響を与えている。現に次弟と四弟は最高学府の東京大学に学んでいるからである。
(盛岡てがみ館・前館長)

 【訂正】前稿第1回の文章中、河東碧梧桐の読みは「かわひがしへきごとう」の誤りでした。



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