2010年 5月 9日 (日)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉159 岡澤敏男 「狼狩り」とオイノ祭り

 ■「狼狩り」と「オイノ祭り」

  賢治が三峯神社で体験したのは山の神の眷属として神聖視される狼像だったのでしょう。三峯神社では、狼がお産をする声を聞くと山中(エノックボ)に小豆飯と酒を供えるという「産見舞い」の伝承があるという。賢治はこうした母性とかかわり深い狼に関心をもったものとみられます。

  小さな四人の子供を誘拐した「狼森」の狼は、子供たちに危害を加えるどころかたき火して子供たちを暖め、栗や初茸を焼いてごちそうする母性的な狼たちを登場させています。そして、
 
  狼森のまんなかで
   火はどろどろぱちぱち
   火はどろどろぱちぱち
   栗はころころぱちぱち
   栗はころころぱちぱち
 
とたき火の周りを走りながら子守唄を歌って子供たちを慰めているのです。

  だが、『狼の民俗史』(菱川晶子著)に収録された『盛岡藩雑書』(1巻〜12巻)には狼に食い殺された子供たちの痛々しい記録がある。

  この『雑書』は寛永21年(1644)から享保9年(1724)まで80年間の記録で150件以上の狼害事例が記載されています。良馬生産に力を入れる盛岡藩らしくほとんどが馬の被害に関する事項の記録ですが、そのなかで人身被害に及ぶ事例も23件ほど散見されます。それも元祿期になって多く目立
つのです。

  たとえば、元祿11年9月24日の条に「御明神村で4人の子供(5歳女子、5歳女子、4歳男子、5歳男子)が狼に食われ2名死す」という事例、元祿3年には「大ケ生村で狼1匹、川目村で狼2匹が稗作人・馬・犬などを損す」という事例、また暮方に「遊び居る5歳の子を狼(2匹)がくわえて行く、追いかけると捨て置き、命は助かる」(元祿10年、白畑村)という事例もみられる。

  このように、元祿以降に狼の人身事故が急増しているのは、飢饉が多発してゆきだおれた餓死者を狼が食したことにより人間を食料と見なすようになったのではないかと菱川氏は推察している。

  盛岡藩は狼による度重なる人馬の被害を食い止めるために賞金を出して積極的に「狼狩り」を奨励している。享保9年(1724)に出した通達によると「雄狼…一貫二百文、雌狼…一貫五百文、子狼…四百文」と報償金を定め狼害防止を図りました。

  だが、狼の被害は明治になっても後を絶たなかったので明治8年に島惟精県令が藩政時代の「狼狩り」策を取り入れ「雄狼…7円、雌狼…8円、子狼…2円」という報償金制度を導入して根絶を図りました。その効果によるものか、明治24年に小岩井農場が開かれた時には「狼森」に狼の姿がまったく消えていたのです。

  しかし、藩政の「狼狩り」とは別に狼から人馬の危害を避けるために「狼と交渉する」民俗儀礼もみられました。狼と敵対するのではなく「棲み分け・共存」をはかる儀礼で、その儀礼を継承する集落が岩手県内にも存在していました。

  その集落とは現在は大槌町の一部となっている旧金沢村で、『遠野物語』(64)に「金沢村は白望(白見山)の麓、上閉伊郡のなかでもことに山奥にて、人の往来する者少なし」とある集落です。この金沢地区には「オイノ祭り」という儀礼が伝承されているのです。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします