2010年 5月 13日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〜肴町の天才俳人〉4 古水一雄 寒吟帖

 「寒吟帖」の表紙には、彩色された春又春自らが描いた風神の絵が施されている。美術に疎い筆者にはこの絵の評価はできないが、なかなかに面白い構図であると感じている。自作の表紙絵は後にも先にもこの1冊である。この表紙にも番号が付けられていないが、『紫草紙』より少し前か重なる時期の日記で、35年の師走の12月5日から31日までが記載されている。

  実は、春又春は『紫草紙』に熱中し過ぎたために翌年の3月には原級留め置きとなってしまっているのだが、小説に憂き身をついやし(「第三」によればであるが)、回覧雑誌に熱中し、俳句三昧にふける毎日で学業どころではなかったのである。
 
     
  日記に描かれた絵  
 
日記に描かれた絵
 
    試験記
  十六日、漢文(若松…試験官の先生)、
  幾何(廣田…同)
    漢文ハ一番目解釈ノモノト二番目應
   (応)用題句読付ノモノトナリ、
  スラスラ苦もなく書く、余の組ニテ一番 先キニ出る、
    幾何ハ三問題内二つハ出来ナランか
    頼むらく戊を取らざらむ事を望む
  帰校夜ニ至るまで何事もなさず、明日の
  国語歴史こそおそろしけれ
  夜「紅東文庫」四冊作る、(八時までに)
  店に歴史画二組来たる、一組六十二枚、
  美しき画幅なり、
  月の夜なり、されど皎々(こうこう)た
  らず
  愉快に寝(ママ)むる。
  ただし明日の歴史ハ(以下中断)
 
  春又春は幾何の成績が「戊」でないことを望むが、「戊」とは今風にいえば「赤点」である。

  明治時代の成績評価は、『岩手近代教育史 第一巻 明治編』(岩手県教育委員会発行)によると、明治十九年の春に森有礼(もりありのり)初代文部大臣によって学校教育制度の大改革がなされているが、この時に公布された小学校令・中学校令のなかに“学業及ビ行状ノ成績ハ之ヲ五段ニ分チ右ノ評語ヲ以テ表ワスベシ”として、その評語を「善」(完全)「能」(ほぼ完全)「可」(完全と不完全と相半)「未」(不完全のほうが多)「否」(不完全)の五段階を示している。

  しかし、春又春が盛岡中学校に入学する前年の明治32年には中学校令が改正されていて、校名も岩手県盛岡尋常中学校から岩手県盛岡中学校になっていた。その改正された中学校令の教則を確認することはできなかったが、この改正の際に成績の評語も変わったものと思われる。

  「甲・乙・丙・丁(てい)・戊(ぼ)」の評語は、もともとは江戸時代に儒学者の学習評価に用いられたものであったとされている。明治時代においても根強く評語として使われていて人々にはなじみの深いものであったと思われ、復活するかたちで評語として用いられたのであろう。

  「戊」は「否」に対応する評語で、その「戊」となることを虞(おそれ)ながら、一向に試験勉強に取り組もうとはしていない様子がみられるのである。

  25日の日記には、次に記述している。
 
      (前略)
   午後中学校に成績見にゆく
   生理、英訳、文法との三科不完全なり
   き、呵〃(あ〃)丁
   やき芋喰ふ
   学校の掲示板に吉田道隆君の停学あ
   る、何の為か、
   仙台の岩手學(学)友會趣意書見る(校
   友會場)
   紫草紙臨時増刊をせつせと書く、けだ
  し今ん年にい出すち(つ)もりなり、
 
  学校に張り出された試験結果のうち、3教科が「丁」に留まるという結果であった。
 
     
  「杜鵑日記」(盛岡てがみ館収蔵)  
 
「杜鵑日記」(盛岡てがみ館収蔵)
 
  ところで、「寒吟帖」の27日には興味深い年中行事の記述がある。
   (前略)         午夜
   鮭の代(※1)に豆ふ汁うまく喰ふ、
   夜に至りたるに間もなく、子供一同已
   に集まりて豆まきを希(ねが)ふこと
   切なり
   六時といふニ鷹一行(※2)もきたり
   たり、さらばと祖父公(※3)の
   神前にぬかづきつ、
   子供らは一同「やあ、まくまく」とひ  しめき合ふ、
   静かに祖父君は、
   「鬼は外ー 福は内ー………鬼は外ー  ッ」
   バラッバラッとなげうつに、子供ら一
   同と女供一同とみせの手代等
   やっきとなりて拾い合ふその見物(み
   もの)なる事よ
   「何の目を打つ、?鬼の目を打つ、ー
   福は内ー鬼は外ー
   何の目を打つー」
   大愉快終われるに十分ともたゝぬまな
   りし、
   豆舞八萬しかして二十人余の人数を喜  ばしむるあ〃物も用
   ふる宜しきを得たるものか
 
   ※1 鮭の白子
   ※2 鷹匠小路の親戚一行
   ※3 二代目庄兵衛・利吉
 
  現代では2月初旬の立春前夜に行われる“豆まき”が、明治のころまでは暮れも押し詰まったこの時期に行われていたのである。この時期には宮中では奈良時代に中国から伝えられた“追難(ついな)”の行事が行われた。

  追難も豆まきも様式は異なるが、鬼を追い払って新しい季節を迎える点においては同じである。一説によると豆まきは室町時代にその起源をもつ民間行事であったという。宮中行事である追難に合わせて行ってきたが、暮れの繁忙期を避けて立春前夜に行うようになったと考えられるが定かではない。
(盛岡てがみ館・前館長)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします