2010年 5月 27日 (木)       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉5 古水一雄 杜鵑日記

     
   
 

 

 
  【今回の日記について】

  第1冊と番号の付された「杜鵑日記(ほととぎすにっき)」には、明治36年(1903年)5月1日から28日までが書き記されている。このとき春又春は18歳。盛岡中学校2度目の3年生である。

  【本文】

     
  「杜鵑日記」(盛岡てがみ館収蔵)  
 
「杜鵑日記」(盛岡てがみ館収蔵)
 
  杜鵑はホトトギスのこと。春又春が終生敬愛してやまなかった正岡子規(まさおかしき)の号である子規を「ホトトギス」と読むところにちなんで日記の表題に用いたものである。

  3度の食事内容を記しているところも、子規の「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」に倣(なら)った形式となっている。春又春は、日記の区切り区切りで筆記用具を変える傾向があり、この日記は筆書きである。

  さて、5月1日は招魂社(しょうこんしゃ)祭典が開かれていて、春又春も内丸にあった招魂社(現八幡宮境内の岩手護国神社)に出掛け神楽見物や内丸座での活動写真を鑑賞している。招魂社とは、幕末に殉職した武士を弔うための神社である。

  招魂社祭典では行列が市内を練り歩き、行列のなかには中学生(盛岡中学校生)が加わることが恒例となっていた。後には盛岡商業の生徒も加わっている。

  16日の日記にも触れておきたい。
 
十六日
  昨夜余ノ歌稿「黄金里歌」第二ニ二月分ヲ筆記
  シ終ル 一/月中作歌ハ百二十九首二月中ハ百/八拾五首ナリ
  重太郎昨夜出テアソバムトテバレタソーナ月並ハイカラ/到底放逐スルニ如カズ、「日本」歌欄
  南天舎ノ三首アリ、相撲ノ画報付録アリ
  雨晴ル
  竹ノ実ナリトテ山陰ヨリ持ち来る
  「ホトゝギス」五十一来左千夫(※1)ノ千本松原虚子(※2)ノ写/生文何等俳文字ゾ一読再読ソノ趣味ヲ三呼ス、アゝ日/本流ナルカナ子規派ナルカナ学ブベキハ写生文ナ/リ
  午飯 カツ節ミソ湯漬三ワン、間食草餅三切、串餅二串、女義太夫ノ顔見世通ル(後略)

  ※1 左千夫…伊藤左千夫は根岸派を代表する歌人

  ※2 虚子…高浜虚子は雑誌「ホトトギス」を主宰した俳人
 
     
  「俳海初漁」(盛岡てがみ館収蔵)  
 
「俳海初漁」(盛岡てがみ館収蔵)
 
  明治36年の初頭には春又春は雲軒に添削を受けながら句作に没頭している。『俳海初漁(はいかいはつさり)』では1月29日から2月6日の9日間でおよそ300句を吟じ、さらに2月9日から25日ごろまでのおよそ17日間で450句あまりを吟じて「きさらぎ」としてまとめている。

  特に「きさらぎ」では雲軒の添削は少なくなっていて、秀句としてつけられた○印の数が遙かに多くなっている。

  「盛岡四百年」下U(郷土文化社出版)によると、「黄金里歌(おうごんりか)」には月に100首を超す歌を詠んだと記されている。かなりの多作といえる。残念ながら「黄金里歌」は現在残されていないので、そこに詠まれた短歌がどのような内容であったかを知ることはできない

  話題は変わるが、店員の重太郎にふれた文章中「月並ハイカラ到底放逐(ほうちく)するに如かず」のフレーズは、春又春を語る上で非常に重要なフレーズである。なぜなら生活面でも文学上でも、春又春の精神のベースとなっているからである。

  世上に流布する通俗なものはそれを認めず、かといって西洋的なものは拒絶をするという精神のありようは、この時代としてはかなり窮屈なありかたと思えるのだが、春又春は一貫としてそのような姿勢を取り続けている。

  やがて春又春は、活路を正岡子規の生き方と文学に活路見いだすことになる。だから「アゝ日本流ナルカナ子規派ナルカナ学ぶベキハ写生文ナリ」と嘆ずるのである。月並み・ハイカラを拒絶するこの姿勢は死の直前まで揺るぐことなく貫かれているのである。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします