2010年 6月 19日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉165 岡澤敏男 万葉古代の異邦人

 ■万葉古代の異邦人

  「盗森」の山男が〈肌の真っ黒なオオヒト〉だったことは、諸国に伝承する山男をファイルした柳田国男も明神山の木兎(みみずく)のように眼を丸くするのでしょう。賢治の発想の「黒い男」を宿す深淵には、異国交流が活発化した万葉古代の奈良の都に民族衣装をまとう異国の群像が往還し、そのなかに「黒い男」の素姓を隠す子孫が存在したものとみられます。

  戦後史学は〈一国史的〉な古代だった日本史の空間をアジア史のネットワークの視座からとらえなおし、さらに陸上、海上シルクロードを通じる西域やオリエントまで視点を広げ日本古代史における国際交流の状況を解明しつつあります。

  古代史において中国や朝鮮から技術や知識や宗教や文物を日本に持ち込んで渡来した帰化人は弘仁6年(815)の『新撰姓氏録』にかなり多く収録されており、リストアップされた政治的資格をもつ家柄のなかに秦氏をはじめとして帰化人系統の氏が約30%占めていることからも察知できる。

  また正倉院の宝物は世界各地の文化の影響がうかがわれ、西域やペルシャ(イラン)、トルコの製品が直接日本に伝えられた物もあるという。

  なお伎楽の酔醐王の面は口から顎に髭をたくわえたペルシャ人の王といわれている。実際に『日本書紀』(以下書紀という)にもペルシャ人の名前が記録されている。敏達紀13年(584年)や用明紀2年(585年)推古紀14年(606年)に漢字で表記された人名をイラン研究者がペルシャ語詞にあてはめ読解しているのです。

  さらに孝徳紀の白雉5年(654年)4月の『書紀』にみる「吐火羅(トカラ)国の男二人、女二人、舎衛の女一人が風に流されて、日向に漂着した」という記録には特別の関心がもたれる。

  トカラとは賢治の好きな西域(中央アジア)のシルクロードにあたるアラル海の流域アムダリアの河南地区にあるトハリスタンとみられます。また舎衛とはインドの舎衛国を指しており「舎衛の女」はトカラ人の妻女だったらしい。

  斉明紀3年(657年)7月にも「覩貨邏(トカラ)国の男二人、女四人が筑紫に漂着した」とある。天皇は駅馬(はいま)を使って都に召され、15日には須弥山を像(かた)どったものを飛鳥寺の西に作り、盂蘭盆会を行い、夕べには「トカラ人に饗を賜った」という。

  同5年1月10日に「吐火羅の人が妻の舎衛婦人共にやって来て」天皇に拝謁したという。同6年7月「トカラ人乾豆波斯達阿(けんずはしただあ)」は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、「のち再び日本に来てお仕えしたいと思うので、そのしるしに妻を残して帰ります」といった。そして十人余りの者と西海の帰路についたらしい。

  なぜこのようにトカラ人を厚遇したのか理由は不明ながら、インド婦人と妻帯したトカラ系の子孫が肌を黒く光らせて奈良の都を歩いている姿を想像するのは可能です。

  このように万葉時代は国際交流が活発に行われており、人種的にも多彩な時代で、『万葉集』巻十六の歌にその片鱗がうかがわれるのです。

   三八四四 黒色を嗤咲(わら)ふ歌一首

  ぬばたまの斐太の大黒見
  るごとに巨勢の小黒し
  思はゆるかも

  言葉書きに巨勢一族は「貌黒色なりき」とあるが、この歌は単に容貌の色黒さを嘲笑したのではなく、混血という人種の別をも話題にしたものと思われます。

 ■「吐火羅(トカラ)とはどんな国か」

  トカラとは中央アジアの地名、民族名。トハラともいう。ギリシャ植民が中央アジアに建てていたバクトリア王国に紀元前2世紀に北方からトカラ人が攻め入りこれを滅ぼしたと伝えられている。

  アラル海流域のアムダリア河南地区をトカラ地方とよび、イスラム時代のトハリスタンがその呼称という。この地区は中国からパミールを越えてきたシルクロードの一つと、インドからカイバー峠を経た大道との交会点(東西交易ルートの中継点)であり、またアムダリアを下る舟運があり、陸路でサマルカンド方面と、東イラン方面と連絡していた。

  南方のインド文化は早くからここに流入していた。アレキサンドロス大王の東征によってギリシャの植民地になると、ギリシャ的、バクトリア的文化を発展させてインドや中国に大きな影響を与えることになった。なお中国ではトカラを吐呼羅、吐火羅と写し、僧玄奘(げんじょう)は覩貨邏、都貨邏と書いている。
  (『日本大百科全書』)


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