2010年 6月 24日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〜肴町の天才俳人〉7 古水一雄 日記の空白期

 【今回の日記について】

     
  短歌初掲載の「馬酔木」3号  
 
短歌初掲載の「馬酔木」3号
 
  「杜鵑日記」を書き終わる明治36年(1903年)5月27日以降、「第四」を書き始める明治38年(1905年)5月21日までの間春又春の日記は空白となっている。

  その間の春又春の動向についてほかの資料を手がかりにして書き留めておきたい。

  【本文】

  明治36年3月に成績不振により原級留め置きとなり再度3年生をやり直すことになるが、同じ年の9月10日「病気ノ為メ」として退学届けを提出している。

  親せきで一つ年下の高橋幸一郎は、その間の事情を「高橋幸一郎 人と作品『楓岡の歌』(高橋甚一編・川口印刷)の「佐藤庄太郎(注:春又春の幼名)氏の思い出」(岩手アララギ昭和25年)の中で次のように記している。

  “第三学年の頃脳を病み頭痛の為●(欠の旧字体)席が続き退学の止(やむ)なきに至った”と退学理由を書き記している。欠席がちであったことは間違いないようであるが、それが頭痛病みだけの理由であったかは疑問である。

  退学後、春又春は上京する。上京した春又春に同じ年に退学して北海道札幌に滞在している親友の武蔵孝吉(むさしこうきち)が上京を祝うはがきを送ってきている。
 
  山は裂け、海はあせるとも男子の気。日本
  国民物学ぶべし。嗚呼何ぞ歌の壮なる呼。
  何ぞ兄の精神の豪なる呼。余は此に兄の 壮挙を大声で呼で廃せずんばあるべから ず。
  嗚呼幸に兄よ健全なれ。以て月鶏(桂)冠
  を天下の文士に取れ。余は其日の近くに
  有るを確信するものなり呼。(中略)先 は御上京御祝申上げ候。
 
  受取人・春又春の住所は、東京市日本橋区小伝馬町 南又兵エ方となっている。おそらく父・喜助が上京していたときの知り合い宅と思われる。日付は明治36年12月29日となっている。商店であれば年末の繁忙期である。

  この時期に上京した目的は、齋藤重三郎が開いている正則英語学校を受験するためであったであろう。当時正則英語学校(現正則高等学校)には全国から3千人を超す地方の秀才が集まったと言われている。ついでに「正則」の校名の由来は、“今の公立の中学校の英語教育は変則である。わが校こそが正則の英語教育を施すのだ”という齋藤重三郎の信念を込めたからである。
 
  【閑暇休題】石川啄木も盛岡中学校を退学して上京したときに、野村胡堂や金田一京助らに“中学だけは終わっておけ”と勧められ、一緒に編入の中学校を捜したがどこにも空席がなく、やむなく正則英語学校の進学科に入学願書をだしてきたという。野村胡堂によると、籍だけおいて授業料がないので授業にはでなかったろうとのこと。(ただし、正則高等学校では先輩(在籍者)として顕彰しているようであるが。)
 
  さて、春又春は無事合格したものとみえて、明治37年(1904年)4月7日の武蔵孝吉の春又春にあてたはがきの住所は東京市神田区北神保町、八重垣館となっていて、神田錦町にあった正則英語学校近くの下宿屋に転居している。

  正則英語学校時代の日記やメモが残っていないので、東京での生活状況をとらえることはできない。わずかに歌誌「馬酔木」に当時の様子を垣間見ることができるのみである。

  実は、盛岡中学校時代から「馬酔木」へ短歌を投稿していて、伊藤左千夫との書簡のやりとりも行っていた。

  短歌の「馬酔木」への初掲載は退学1カ月前の8月、第3号に紅東の雅号で雑詠短歌の項に2首掲載されている。
 
   すがすがし五月雨晴の夕露の葡萄の
   園に螢(蛍)飛ふかも
   朝晴の庭のみきりにひろけなめ唐傘
   ほせり桐咲ける宿
 
  春又春が上京したもう一つの目的は、短歌の修行ということもあったのかもしれない。

  明治37年(1904年)の年末に、本所茅場町の左千夫宅で開かれた短歌会に2度出席している。忘年歌会と称した11月11日には、左千夫14点、三子(さんし)・甲之(こうし)各12点、里静(りせい)10点、八風(はちふう)・紅東各8点をあげた。

     
  課題文掲載の「馬酔木」2巻2号  
 
課題文掲載の「馬酔木」2巻2号
 
  また、同月19日にはその昔根岸庵(子規宅)で行われていた十題十首を踏襲した歌会か行われ、左千夫13点、三子12点、蒿水(こうすい)8点、紅東7点、甲之5点…となっていて、春又春が根岸短歌会の幹部に互して好成績をあげていたことが「馬酔木第15号」(明治38年1月3日発行)の掲載記事から知ることができる。
  
  八重垣館での様子をわずかに垣間見ることができるのは、同じく「馬酔木第2巻2号」(明治38年3月発行)に掲載された課題文に応募した文章からである。その一部を次に紹介したい。
 
    朝飯前の記事
  僕は毎日日記を書いて居るが、朝飯と起床との間は僅かの時間で別に記事はないので、其の朝に 見た夢を書くことにきめて居る、
  二月八日、起床七時十分

  国の中学校の英語の時間で同級生の岩崎といふ人が英語を読んで居る、岩崎君が読み終わると僕の番だがその読本が何やら分からないので大恥を掻くところで目が覚めた、
      (中略)
  二月十一日、宿の番頭が夜着の上にハガキと「日本」を投げていった、ハガキは芝の友達から品川沖に舟漕ぎの記事が書いてあつた、起床七時二十分、夢は忘れた、
 
  この文章では春又春が毎日日記を書いていることになっているが、その日記は1冊も残されていないのである。意図的に破棄したとしか考えられないが、その理由についてはもう少しあとで考察することにする。

  さて「朝飯前の記事」が掲載されてほどなく春又春は盛岡に呼び戻されることになる。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします