2010年 6月 26日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉166 岡澤敏男 祇園精舎の国の婦人

 ■祇園精舎の国の婦人

  古代日本に渡来したトカラ人(乾豆波斯達阿・けんずはしたちあ)と妻女舎衛(インド婦人)に関する記事を、『日本書紀』は孝徳紀から斉明紀にかけて四度も報じています。それは前回すでに述べたところですが、さらに天武紀にもう一度つぎの記録がみられる。

  それは天武紀4年(675年)1月1日に「大学寮の諸学生・陰陽寮(おんようのつかさ)・外薬寮(とのくすりのつかさ)および舎衛(さえ)の女・堕羅の女・百済王善光・新羅の使丁(つかいのよほろ)らが、薬や珍しい物どもを捧げ、天皇にたてまつった」とある記録です。

  ここに天武天皇に「珍しい物」を捧げに参内した「舎衛の女」の名が載っています。これはトカラ人の夫が斉明紀6年(660年)に本国へ一時帰国する際に「再び日本に来てお仕えしたいので、そのしるしに妻を残して帰ります」と告げているとおり、妻の「舎衛の女」は夫の留守を守って残留していたものとみられます。

  トカラ人の夫は役所にどんな用件で「お仕え」していたのか、また舎衛が天皇に捧げたという「珍しい物」とは何であったのか、想像をくすぐってやみません。

  舎衛の女の母国である舎衛国(コーサラ国)はガンジス川中流地域に栄えた王国でした。ブッダ(釈尊)が在生したBC5〜4世紀ころにはコーサラ国はマガダ国と並ぶ2大強国でした。首都はガンジス川の支流ラプティ川の南岸にある舎衛城(シュラーバスティー)で商業都市として繁栄していた。

  コーサラの首都は、四つの城門を東西と南北に結ぶ2本の大通りの交わる地点に中央広場があり、近くには王宮や会堂、中心街にはバルコニーをもつ高楼が並んでいた。庶民の住宅は木造・泥壁・草葺きであり、王宮や資産家の家はレンガ・石・木材で堅牢に造られていた。

  中央広場では野菜売り、肉売り、花環売りが店を開き、買い物客でにぎわっていた。都市の内と外には園林や蓮池があり、王族や市民のレクリエーションの場ともなっていたという。だがコーサラ王国は、BC4世紀ころに隣国マガダ国に攻略され滅亡してしまうのです。

  コーサラ国は王宮の郊外マヘートに堂塔伽藍を建てブッダの説法を聞く僧院「祇園精舎」を設けました。この僧院にブッダが訪れて19度も雨安居(うあんご)を行ったと伝えられるが、7世紀に玄奘がこの地を訪れたときには祇園精舎はすでに荒廃して、大伽藍は崩れ落ち基壇を残すだけだったという。

  またコーサラ国のラーマ王子を主人公とした梵語叙事詩『ラーマーヤナ(ラーマ行状記)』は吟遊詩人によって語り継がれて2万4千詩句をもつ大長編として有名です。もしかして、舎衛の女は滅亡して他国で隠棲していたコーサラ王族の血を引く誇り高き女性だったのかもしれません。


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