2010年 7月 1日 (木)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』〉望月善次 連載開始のことば

     
   
     
  石川啄木の文筆力の凄(すご)さについては改めて述べるまでもないことであろう。

  ここでは、あの絢爛(けんらん)たる技巧を誇った北原白秋の「詩人として啄木ほどの技巧家は当時極めて稀であつた。寧ろ技巧に淫するくらゐの人であつた。」〔「考察の秋 その五 石川啄木について」、『短歌雑誌』(大正十二年九月号)/『白秋全集18』(岩波書店、一九八五)p二八四。〕のみを挙げておこう。

  その技巧はどこではぐくまれたか。

  時期的なことを言えば、その技巧が飛躍的に発展したのは『あこがれ』の時代であるというのが評者の強調点である。

  しかし、一般的には『あこがれ』に対する評価は高くない。日夏耿之介『明治大正詩史』の「早熟少年の模倣詩集」という評価が行き渡っているし、啄木自身の『あこがれ』時代の詩業に対する全否定に近い言もある。〔「弓町より(食ふべき詩)」〕

  もちろん、研究レベルで言えば、右に述べた状況にあるのではない。よく知られている例を挙げても、既に『石川啄木全集 第二巻 詩集』(筑摩書房、一九七九)には、『あこがれ』の重要さに対する意味を明らかにしている行き届いた小田切進の「解説」がある。

  また、最近の場合で言えば、柳澤有一郎、飯村裕樹(いずれも筑波大学大学院生)などの若い世代による取り組みもある。

  いずれにしても、『あこがれ』抜きの啄木評価など考えられないというのが、評者の立脚点である。啄木の文筆力について言及する際、『あこがれ』に対する言及がないものに対しては、どこかウサンクサイと感じている自分がいるのである。

  人口に膾炙(かいしゃ)している『一握の砂』などについても、『あこがれ』の技巧を抜きにしては語れないのであり、その意味は、どんなに強調してもし過ぎないほどだと思っている。

  しかし、繰り返すようであるが、実態としては、流布してしまった評判と、それに追い打ちをかけるような難解な語彙(い)のこともあり、とにかく『あこがれ』があまりにも読まれていない。

  この現状を何とかしたい。

  そう考えていたところへ、盛岡タイムスの関口編集局長から『あこがれ』に関する連載をしても良いとのお話をいただいた。当初、関口編集局長からは、〈原文抜きの「現代語訳」!〉という提案もあり、それは、評者自身が思いもつかなかったという点で、刺激的でもあったが、話し合いの結果、次回からご覧いただくようになる形に落ち着いた。

  この形の核心は「とにかく『あこがれ』を読む」ことであり、まず「音読」してもらおうというものである。本文については、すべての漢字に振り仮名をつける「総ルビ」の形式を採用し、各回の中心を示す短い表題と〔現代語訳〕を加えたのが、その具体的な形である。とにかく、音読していただくことで、啄木の絢爛たる語彙力やそこに示されている技巧もある程度は、自然に体感できるであろうというのが評者の考えである。

  こうした試みの可否は別にして、この新しい試みを受け入れてくださり、『あこがれ』原典を読んでくださる方が一人でも二人でも生まれてほしいというのが現在の祈りである。

  この祈るような気持ちをもって、連載開始のことばとしたい。

  なお、本文としては『石川啄木全集 第二巻 詩集』(筑摩書房、一九七九)を用いたいと思う。ただし、右に述べたように、漢字については「総ルビ」(ルビのうち、ゴシックになっているものは、原文のルビである。原文のルビは古典仮名遣い、その他は現代仮名遣いの不整合がある。)とし、字体についても一部は現在使用しているものとしていることはお断りしたいと思う。
(盛岡大学学長)

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  【編集局から】連載は4日から開始します。毎週木曜日と日曜日を予定しています。


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