2010年 7月 4日 (日)

       

■ 〈早池峰の12カ月〉52 丸山暁 僕とH2Oとせせらぎ

     
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  雨は降っていなかったが、梅雨空のさほど天気の良い日ではなかった。渓流の水面(みずも)はゴーゴーと水しぶきを上げ、キラキラ輝いていた。ここは、僕の散歩コースで最も好きな場所である。不安な時、寂しい時、穏やかな日もこの木の橋の上に立つ。

  以前書いたことがあるが、田舎暮らしの移住地の条件は、「適当な耕作地と豊かな緑と清き水の流れ」だったが、この場のような清らかなせせらぎはなかなか出合えなかった。

  なぜ、清らかなせせらぎにこだわるかといえば、僕はとにかく水が大好きなのである。飲みすぎた朝の一杯など、どんな銘酒にも勝るものだ。これは誰しもうなずけるはず。

  今は建築屋だが大学は水理研で、卒論のテーマは「都市化に伴う洪水予想」だった。近年異常気象と共に拡大する都市型洪水、現在最も重要な研究課題であるが、40年前の僕も、なかなか先見の明があるではないか。

  そんなことで、随分水にかかわる本を読むようになった。水理工学や水文学、気象から砂漠の地下水やカナート(地下貯留水道)の本、ガストン・バシュラール(思想的詩人)の『水と夢想』や「ジェンダー(社会的性差)」で有名になった社会批評家イヴァン・イリーチの『H2Oと水』など、水と名が付く本は手当たり次第買いあさった時期がある。

  それと少年期の経験も大きい。夏休みは、山奥では川や池に潜り小魚と戯れ、魚をやすで突き、瀬戸内時代は岩場で素潜りを楽しんでいた。人間にとって水中で浮遊したり宙返りするのは、重力から開放されて宇宙遊泳的身体体験ができ、快感である。

  もう一つ恐怖かつ敬虔(けいけん)な体験がある。幼稚園のころ、家族と広島の帝釈峡という渓流にピクニックに行って、岩場で足を滑らし一気に流され滝壷(つぼ)に落ちて沈んでしまった。

  回転しながら流され、空と水を感じているうちに、静寂なプロッシャンブルー(群青色)の世界が広がって「ああ、おかーちゃんに会えなくなる。淋しいな…」というのが最後の意識だった。そこが黄泉(よみ)の国の入り口だと、今でも確信している。

  そのままあの世に行っていれば、この事件を語れないのだが、オヤジが滝壷に飛び込んで探し、諦めかけた時、オヤジの足に触ったものが僕の足で、引っ張りあげてたら息を吹き返したそうだ。僕はずいぶん呼吸が止まったので、脳にダメージを受け今の僕がある?

  そんな経験があるから、水が僕を引き寄せているのかもしれない。せせらぎの音を聞き、せせらぎの振動を感じると、心が穏やかになり、新たなエネルギーが沸いてくる。

  (丸山暁建築・空間工房、大迫・外川目在住)

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