2010年 7月 8日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉8 古水一雄 釈行擔追悼集

 時間を明治37年(1904年)4月に巻き戻すことにする。

       
  追悼集・表紙と序文 (盛岡てがみ館収蔵)  
 
追悼集・表紙と序文
(盛岡てがみ館収蔵)
 

  実は、春又春が正則英語学校に入学して間もなく、敬慕する祖父・利吉(二代目庄兵衛)が4月9日病死したのである。祖父が病気のために床に伏していることは春又春に伝えられてはいたが、病状までは知らされていなかったようであったし危篤であることも知らせてこなかったため、死に目に会うことはできなかった。そのことがひどく堪えたようで、追悼歌を詠んで「釋行擔(しゃくぎょうたん)追悼集」としてまとめている。

  その追悼集の入った「青き里」は明治38年に製本されている。その内容は明治36年11月の17日から30日の日記(注:閑院宮載仁親王の来盛の記事から判断できる)、明治36年4月7日の日付がある添削句集の「菊屑集」、湯治の記録である「大沢温泉保養録」、続いて「釋行擔追悼録」、そして明治36年2月22日から30日までの日記「カラアフヒ」である。

  「釋行擔追悼録」には、祖父の死後まもなく詠まれた挽歌に始まり、一周忌まで折りに付けて祖父の思い出を短歌にしているものである。いくつかを紹介したい。
 
       挽歌
  何者か大声たてゝ叫ぶとや阿弥陀如来の
  叫ぶ声ならし
  祖父の君いつくに逝きしみちのくの北上
  の水とはに流れど
  うつしえを見ればかなしもいまはまで吾
  が名を呼びし声聞え来も
  七十二古来稀なりことほげと諸人言ひど
  吾ハかなしも
  かくばかり重くしあらばなど早く我れに
  知らせぬ駈けて来しを
 
      一周忌
  桜咲く弥生四月の九日のふたたび朝にな
  りにてらずや
  千里ノ山万里の水をへたてゝもかなしき
  ものをとことわの旅に
 
  1月から祖父が病んで床に伏していることも春又春には知らされていなかった。人一倍祖父を慕っていた春又春であったから、おそらく学業にも手につかなくなることを虞(おそれ)て両親は伏せたのだろう。

  手紙にも全快して店に出ているなどと書いてきていたのだ。そのことで祖父の死に目に遭えなかったのが余計に春又春を悲嘆にくれさせたのである。

  祖父・友吉についてはこれまで不明なことが多かったが、過日ご遺族のお宅に伺って春又春の手になる過去帳を見せていただいた。朔日(ついたち)から晦日(みそか)まで日を追っていて、2段書きの上段に没年月日と法名(戒名)が書かれ、下段には続柄や俗名などの説明書きが記載されている。

  ここで初めて目にしたのが釋締禮の法名を持つ人物である。明治7年(1874年)5月4日に没している。4日の項の下段の説明書きを読んで驚愕した。そこには“二代目庄兵衛俗名友吉/鹿角山崎市右衛門より参り…”とあるではないか。さらには9日の項には明治40年(1907年)4月2日釋行擔の下欄は“俗名久保庄3代庄兵衛/行年七二才”とある。

  実は、春又春(庄太郎)研究には唯一の研究書がある。昭和49年に研究社から発行された大谷利彦著「啄木の西洋と日本」である。その著書に啄木関係の記述と章を改めて「佐藤庄太郎日記」として記述している。そのなかに春又春は4代目・庄兵衛と書かれているのである。これまで盛岡てがみ館の企画展や本稿の序章などでも大谷説を踏襲して春又春・4代目としてきたのであった。

  急いで春又春の書き残した3つの家系図・家譜をひもといてみた。家系図は「寒吟帖」と「釋行擔追悼録」のなかに書かれている。家譜は「第八」に書かれているが、安永元年(1771年)から明治37年(1904年)までの久保庄関係者にかかる誕生・死亡と簡単な記事を編年体で書き付けている。

  その家譜を見ると2代目庄兵衛・友吉は、文化7年(1810年)2月18日に誕生し、天保2年(1831年)2月に久保庄家の養子となっている。そして翌天保3年23歳の時に18歳になる家付き娘・いとと結婚している。

     
  久保田家・過去帳(佐藤和子氏所蔵)  
 
久保田家・過去帳(佐藤和子氏所蔵)
 

  その友吉が釋行擔だとすると行年96歳ということになり、「釋行擔追悼録」の短歌に詠み込まれた“七二才古来稀なり”にはほど遠い年齢となってしまう。釋行擔の死亡日から逆算して家譜を見直すと天保4年(1832年)の項に「飢餓、庄太郎(久保庄)生ル十二月二十三日」とあった。この庄太郎こそ釋行擔その人なのである。

  整理すると、2代目庄兵衛・友吉は春又春の曾祖父であり、3代目庄兵衛・庄太郎が春又春の祖父であったのだ。

  なぜこのような誤謬が生じたのか。それは「寒吟帖」に書かれた家系図にも原因がある。その家系図には徳の連れ合い喜助の名前が省かれ、あたかも3代目庄兵衛と徳が夫婦であるような図になっているのである。実際は父と娘であるにもかかわらず。

  春又春がこの家系図のなかに父・喜助の名前を入れなかったのは単なる書き落としであったか、何かの意図があってであったかは今となっては確かめるすべはない。

  おそらく故大谷利彦(昨年12月死去)は、この家系図と家譜を付き合わせることはしなかったのだろう。ただ、執筆当時久保庄のご当主・庄兵衛(7代目庄兵衛・伸一郎)はまだ健在であったので確認できないことではなかったはずであるが。(ご遺族の佐藤和子氏は、先日「そういえば、父は7代目といっていたような気がする」とおっしゃっておられた。)

  さて、事実関係の訂正についてであるが、本連載の序章をはじめいくつかの部分を修正する必要ができてしまった。しかし、これによって春又春の“人となり”に大きく影響することではないと判断し、今後春又春・5代目庄兵衛とのみ訂正してそのまま筆を進めることにしたい。読者の皆様には今後いつの日か改めて訂正の機会をもつことを約してこの章を終わりとしたい。


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