2010年 7月 20日 (火)

       

■ 疎開児童37人寄宿の豪農 築100年経て矢巾町に現存

     
  疎開寄宿した当時の姿を残す吉田家の母屋。2階の左側が女児たちが寝起きした部屋  
 
疎開寄宿した当時の姿を残す吉田家の母屋。
2階の左側が女児たちが寝起きした部屋
 
  1945年、東京からの児童37人が旧徳田村立徳田国民学校(現徳田小学校)に学童疎開した。旧陸軍第3旅団盛岡連隊区司令部も空襲を避けて盛岡から疎開した。終戦直後に軍人たちが焼いた書類の火が原因で校舎が全焼するという出来事もあった。この話題を調査しているのは矢巾九条の会。8月6日午後5時半から徳丹城史跡公園でピースin矢巾夢まつりが開かれ、その席上で調査結果を発表する。

  矢巾九条の会の佐藤征克さん(69)によると、東京から疎開したのは、東京大森区(現太田区)立・東調布第3国民学校4年児童男女37人。45年6月25日から10月29日までの約4カ月間、旧徳田村の豪農宅に寄宿した。

  徳田国民学校の児童数は当時943人。これに45年7月4日に空襲を避け疎開した第3旅団盛岡連隊区司令部が南校舎を司令部として使用したため、疎開児童が学習する空き教室は全くなかった。やむを得ず教員や児童の寄宿先で教えることになった。

  寄宿は男女別に割り振られ、女児が寄宿したのは同村藤沢の吉田家。母屋は大正初期の建築で今では100年近くを経ている。現存する土蔵が2棟ある。それぞれ明治時代の建築だが、疎開児童を迎えた当時は土蔵4棟があったという。

  この住宅に現在住んでいる美術研究家の澤藤勝行さん(72)は「わたしは婿なので詳しいことは分からないが、7年前に亡くなった義母の話によると母屋の2階で寝起きをし、その時1階の障子戸をガラス戸にして下駄箱を新たに作ったと聞いている。1階は板敷で30人は優に入れるので、勉強を教えるとするならここでしょう」と話していた。

  数年前に当時児童だった婦人5、6人が訪れた。当時を懐かしんでいたという。「徳田は食べ物が豊富で楽しかったと話していましたよ」と澤藤さん。

  終戦直後に司令部の軍人たちが書類を山のように積み上げて何日もかけて燃やした。その火が、終戦10日目の8月25日に校舎に燃え移り書類とともに全焼させたという。この時、音楽の先生の呼びかけで勇敢な児童たちがピアノを火の海から助け出した。

  矢巾九条の会では疎開児童と、疎開した軍司令部、校舎火災とピアノの救出劇を紙芝居にして矢巾夢まつりで発表する。ピアノの救出にかかわった当時の児童ら7人による座談会などを計画している。

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