2010年 7月 31日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉171 岡澤敏男 中学時代の保阪嘉内

 ■中学時代の保阪嘉内

  もしも賢治の盛岡高等農林への進学が卒業時に許されていたなら。もしも嘉内が東北帝大農科大学の受験に失敗せずに合格していたなら。もしも賢治が室長だった自啓寮南寮9号室へ入室する新入生5人の名簿に嘉内の名が漏れていたなら。それを考えると賢治と嘉内の邂逅にはじつにミステリアスな偶然が重なっていることに驚く。そうした偶然のネットをくぐり抜けてきて奇跡的に邂逅した賢治と嘉内であり、賢治の眠れる大天才の原子炉に点火する嘉内だったのです。

  南寮9号室で賢治の前に出現した保阪嘉内とはどんな青年だったのか。『心友 宮澤賢治と保阪嘉内』より抜粋して紹介します。

  まず「嘉内」という珍しい名前のことです。神道系「禊教」の熱心な信者であった父善作が琉球古代神道の「ニライカナイ」にあやかり名付けたものらしい。

  ニライカナイとは「儀来河内」(ぎらいかない)とも言い「海の彼方の理想の国土で、神の国と考へられてゐる処である」と折口信夫が述べている。

  善作はニライカナイから豊穣の神(まれびと)がやってくるという信仰により長男に「嘉内」と命名したのでしょう。嘉内が入学した山梨県立甲府中学(現甲府第一高校)の校長大島正健は札幌農学校教頭クラークの薫陶を受けた第1期生で、有名な「Boys,be unbitious」を「少年よ、大志を抱け」と訳した人でもあり、この言葉を甲府中学の校是としたという。

  嘉内が東北帝大農科大学(後の北海道大学)を志望したのは大島校長の母校へのあこがれだったらしい。嘉内が中学1年(明治43年)の5月、ハレー彗星の接近があり、スケッチブックに甲府の山々の上空を通過するハレー彗星をスケッチし「ハレー彗星図/五・廿八刻」と日時をメモしている。

  当時は星の研究家野尻抱影が英語教師だったから、嘉内も天体への関心が高かったのでしょう。ちなみに盛岡の夜空は曇りで、賢治はハレー彗星を見られなかったらしい。後に嘉内がスケッチしたハレー彗星の絵を星好きの賢治に披露したのかもしれない。

  その際、この絵に添えた「銀漢ヲ行ク彗星ハ/夜行列車ノ様ニニテ/遥カ虚空ニ消エユクナリ」という〈銀河鉄道〉をイメージさせる情景を感動的に語ったのでしょう。

  中学時代の嘉内の趣味は多く、なかでも芝居、登山や文芸、絵画(スケッチ)を好んだという。芝居は甲府の街や東京で歌舞伎から新劇まで観劇し、歌稿ノートには芝居の歌が書かれています。登山は中学2年の夏に八ケ岳に初登山をしてから病みつきになったらしい。

  以来、毎年のように八ケ岳に登っている。八ケ岳だけではなく駒ケ岳、茅ケ岳、富士山や生家から見える甲州の山々を踏破してスケッチ帳にそれらの山々を描いている。

  賢治も中学2年の6月と10月に岩手山に登山して以来、岩手登山が常習となっており何かしらおもしろい共通項と思われます。

  なお嘉内が好んで登った八ケ岳には風の神が住んでいると古来から信仰があり、風の神の尊名を「三郎」と言った。すなわち「風の三郎」なのです。童話「風の又三郎」の初期形「風野又三郎」に興味を呼ぶ箇所がある。九月四日のサイクルホールの話のなかに「甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ケ岳の麓の野原でやすんだらう」とあるのです。八ケ岳の「風の三郎」伝承を取入れているのかもしれません。

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