2010年 10月 2日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉180 岡澤敏男 篠木峠から烏泊山へ

 ■篠木峠から烏泊山へ

  大沢坂峠を西に越えると雑木や針葉樹の深い山腹となり、林道はそのひだを緩やかにカーブして下山する。道は西北に向かいメープルゴルフ場の側を抜け新鬼越池をう回して姥屋敷方面へと続いています。林道の途中から西南に分岐する小径が2本あって、外山、苧桶沢(おぼけざわ)方面へ通っている。外山とは大沢坂峠の西側一帯を指しているらしい。

  『滝沢村誌』には甘石(凝灰岩)産地が外山の石倉山と記述されているが、石倉山なる山名は五万分の一の地図にはまったくみられない。春と秋にこの地区を何度か跋渉(ばっしょう)してみたが石切場はついに発見できなかった。

  そこで村当局に石倉山の所在を尋ねたが回答が保留されている。それでは詩篇〔眠らう眠らうとして〕の「石切たち」が向かった石切場とはいったいどこなのか、一切がミステリーの濃霧の中で睡っているのです。

  ところが「大正五年十月より」の歌稿に収録される次の3首は石切場と関係があって興味をひきます。この詠草は〔眠らう眠らうとして〕で大沢坂峠を回想した大正5年初冬のできごとに連結した作品なのでしょう。賢治は石切たちを追って石切場にたどりついたとみられます。

  霜ばしら砕けて落つる岩崖は陰気至極の Lipa rite tuff
  凍りたる凝灰岩の岩壁にその岩壁にそつと近より
  凍りたる凝灰岩の岩壁を踊りめぐれる影法師はも

  「凝灰岩の岩壁」とは石切場の岩壁なのでしょう。また「踊りめぐれる影法師」とは現場を確認し喜悦する自分の姿を比喩(ゆ)したものとみられる。この詠草から大正5年10月には石切場が明らかに所在したわけで、私も一日も早く「凝灰岩の岩壁」を訪れて踊りめぐりたいものです。

  大沢坂峠から南に尾根を進むと篠木坂峠をはさんで標高389bの烏泊山(からすどまりやま)に至るが、この山の前に篠木坂峠付近を調査したと見られる。

  『盛岡附近地質調査』の「報文」を見ると〈水成岩及其風化物の記載〉の章に「篠木坂及鬼越坂」の地名があり、安山岩質凝灰岩の産地と指摘し「往々其間隙に玉髄を充たす」と特記しています。

  賢治は篠木坂峠で玉髄を採集したのでしょう。狂喜する賢治の姿が見えるようです。宮城一男氏は鬼越山を《石ッコ賢さんのふるさと》と評しているが、この鬼越山と篠木坂峠は地質も同じで玉髄をも産する共通項があって双子の兄弟同然と思われたのでしょう。

  「雨ニモマケズ手帳」に「経埋ムベキ山」として沼森の次に篠木峠をためらう事なく記名したのは、地質調査での故事が深層に刷り込まれてあったものと推察されます。

  やがて篠木坂峠(301b)から烏泊山の尾根にとりつき、稜線をたどり389bの山頂に達したのでしょう。調査はB班全員(賢治、小菅、細山田)によって行われたとみられる。

  「報文」の〈地理及地形の概要〉の章に烏泊山の地名は2カ所に記されているが、第三紀層に属し下部は流紋岩質凝灰岩、上部は安山岩質凝灰岩と凝灰質の岩石を特徴とするとの解説のほかは、大沢坂峠、篠木坂峠のような玉髄産出という特記事項はみあたらない。

  賢治が烏泊山の調査で得られたものは玉髄ではなく、中腹から山頂からの素晴らしい眺望と「烏泊山」という地名譚に基づく創作欲だったと思われます。

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