盛岡タイムス Web News 2010年 10月 7日 (木)       

■ 志波城跡で西側築地塀を発掘 盛岡市教委、9日に現地説明会

     
  志波城跡の外郭築地塀跡が発掘された盛岡市中太田法丁地内の現地(南西側から撮影。写真奥は東北自動車道)  
 
志波城跡の外郭築地塀跡が発掘された盛岡市中太田 法丁地内の
現地(南西側から撮影。写真奥は東北自動車道)

 
  盛岡市太田地区にある古代城柵の国指定史跡志波城で、約1200年前の外郭の築地塀(ついじべい)跡が西側で新たに発掘された。市教委によると、隣接する市道下にあると思われていた築地塀本体が調査地で見つかった。これまで南側は発掘実績があり、復元されてきた。北側は志波城を崩壊させた洪水で消え去り、東側は県道下にあるとみられる。西側は今回初の発掘で、築地塀跡は後にも先にも最後の発掘となりそう。9日午前10時半から現地説明会で一般公開される。

  場所は同市中太田法丁地内の民有地で、東北自動車道より西側の面積約200平方b。東北道と並行に走る市道官台線と隣接する南北20b、東西9bの範囲。地面から深さ60〜80a掘ったところで、南北に築地塀(土塀)本体、その東側に内溝、反対の西側に外溝が発掘された。

  築地塀は幅2・4b。工法は古代中国から伝えられたもので、寸法は「延喜式」などに定められたものが使われている。南辺にも適用されている。西辺にもこれをあてはめると、屋根を含めた高さは4・8〜5・1bあったと推定される。

  今回は築地塀本体のほか柱穴、内外溝に塀が崩壊して流れ、たい積した土も確認された。築地塀本体と住宅の基礎部分とが重なった部分からは、締め固められた築地塀の土の層も見つかった。塀を造る際に東西に置かれた足場の柱穴もあった。

  調査は住宅建て替えに伴うもので、9月14日から開始された。市教委歴史文化課の今野公顕文化財主任によると、当初の予想では市道下に本体があり、調査地からは西側の外溝が発掘されると見ていた。市道は途中から東にカーブしているため、市道よりも西側から本体部分が内溝も含めて発掘できた。

  築地塀の発掘は、主要地方道盛岡環状線に面し、古代公園案内所のある南辺部で東北道の工事などに伴い確認された。西辺部については、下水道工事などで1981年(昭和56年)と90年に溝跡が見つかったが築地塀本体は確認されなかった。住宅の建つ昭和20年代まで盛り土状に塀跡が残っていたという。

  今野文化財主任は「志波城の西側の辺で築地塀本体が残っていたのを初めて確認し、詳細な場所が分かった。史跡にとって重要な発見となる。正面のため大事に造られた南辺と変わりがなさそうだ。南辺のような櫓(やぐら)は見つかっていないが、今後の調査による。しかし今後築地塀跡が見つかるかといえば(東西南北を含め)ほぼないだろう」と説明している。

  【用語解説・築地塀】版築(はんちく)技法を用い、一定の幅と長さを堰板(せきいた)で囲う。その中に土を一定量入れ、つき固める作業を何度も繰り返して積み上げる。志波城では「延喜式」にあてはめると、幅2・4bに対して長さ6b。それぞれ「積み手の違い」と呼ばれる境界線で区切られているとみられる。

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