盛岡タイムス Web News 2010年 10月 9日 (土)       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉181 岡澤敏男 童話「烏の北斗七星」

 ■童話「烏の北斗七星」

  烏泊山で眺めた風景が、最晩年の病床で作成した文語詩「岩頸列」(文語詩稿 一百篇)に投影されているのかも知れない。烏泊山の目の下には雫石川を隔てて沖積地の水田が広がり、その西方に対峙する丸みを帯びた山並みが眺望され、その美しいスカイラインの鮮明な初印象が深層に刷り込まれていたのでしょう。
 
  西は箱ケと毒ケ森、/椀コ、南昌、東根の、/古き岩頸(ネック)の一列に、/氷霧あえかのまひるかな
 
  とある第一連は、スカイラインをなす山々でした。
 
  からくみやこにたどりける、/芝雀は旅をものがたり、/「その小屋掛けのうしろには、/寒げなる山にょきにょきと、/立ちし」とばかり口つぐみ、/とみにわらひにまぎらして、/渋茶をしげにのみしてふ、/そのことまことうべなれや。
 
  第二連は、旅役者の芝雀に病床にある自分の身上を重ねて比喩(ゆ)している。不入りな芝居小屋の背後には岩頸のような連山が「にょきにょき」と迫っていたのでしょう。
 
  山よほのぼのひらめきて、/わびしき雲をふりはらへ、/その雪尾根をかゞやかし、/野面のうれひを燃し了(おほ)せ。
 
  第三連の山々へ託した祈りは、まことに切なく響きます。かつて岩頸列の連山を眺めた烏泊山での初印象が心底にほのぼのと輝いていたのでしょう。

  かつては名前どおり群がる烏が宿泊する山でした。日中は盛岡周辺に餌を漁りに出かけ、夕べにはこの山の杉の森に戻って塒(ねぐら)にしていたらしい。しかし烏泊山の周辺の水田地帯が開発され都市化し、山の樹木も伐採され烏が棲みずらくなったらしい。

  今は山名も伝説化してしまったが、平成2年10月に95歳で他界された賢治と同年輩の蛯名啓四郎(小岩井農場大先輩)さんは「むかしは烏泊山は烏でにぎやかだったよ」と話されていた。

  当時の地形図で調べると烏の塒となる得る杉や樹木の記号が、現在よりはるかに高密度になっているから、賢治は烏泊山の夕景のざわめきを耳にしていたのでしょう。そして烏泊山に寄せる愛着が短篇「秋田街道」や童話「烏の北斗七星」の作品につながったのです。

  短篇では深夜の仁沢瀬台地の場面に烏泊山を黒子の姿で出現させ、その「山に何の鳥だか沢山とまって睡ってゐるらしい」と述べている。鳥の正体を烏と知りながらレトリックを用いたのです。烏泊山はまだ大正9年当時には烏の塒だったことがよくわかります。

  「烏の北斗七星」はその翌年の大正10年12月末に起草した童話です。これは「海軍軍縮」問題に想を得てイメージされたファンタジックな烏の義勇艦隊物語です。「海軍軍縮」とは、大正10年11月に第一次世界大戦後の国際秩序をはかるワシントン会議が開かれ12月下旬に列国は軍艦削減を大筋において合意した。童話には烏泊山を基地に停泊する烏の義勇艦隊と、敵対する北方の山烏艦隊とが対峙して大沢坂峠で交戦する場面を挿入しているのです。

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