盛岡タイムス Web News 2010年 10月 27日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉200 伊藤幸子 白秋のゆかり

 白秋と柊二の山に向きあ
  へど山裾をいまださ迷ふ
  に似つ 
  久保節男

 
  日々、確実にはるかな歳月がすぎてゆく。今、私は明治31年から7年間の北原白秋の「伝習館中学・北原隆吉学籍簿成績欄」を見ている。1学年の成績は15科目平均80点、174人中16番。2学年90点台の5科目は皆文系である。

  明治30年8月、島崎藤村の「若菜集」発刊、与謝野鉄幹「明星」創刊はこの33年4月のこと。ところが翌34年3月30日、沖ノ端大火に見舞われる。沖ノ端漁港対岸からの飛火で北原家の11棟の家屋と酒倉、新酒2千石余が大砲を撃つような破裂音をあげて燃えさかったという。これが因で北原家は倒産に傾いてゆく。このころ撮影の弟、鉄雄との共に学帽学生服姿の写真を見る。トンカジョン(兄)チンカジョン(弟)と呼ばれて育った富裕な少年時代が伺われる。

  昭和50年代、米沢市在住の私に、自著「北原白秋研究ノート」を下さったのは福岡で、伝習館高校の先生をされた歌人の久保節男さん。父上の仕事の関係で、大正8年山形市に生まれ、米沢興譲館高校を卒業。東京の大学を出られ、のちに父祖の地九州に帰られた。うちの子供たちが在校のころ、「藩学創設300年記念式典」や昭和62年には新校舎竣工の慶事があり久保さんはそのたびに後輩のいるわが家に立ち寄られた。

  山形は斎藤茂吉の牙城で、白秋系の歌人は少なかったが、時折みえる遠来の、白秋高弟のお客様は何よりの喜びだった。

  「御柩に別れて罷る応接間此処に先生と『おしん』も見けり」昭和58年に放映された連続テレビ小説を、久保さんは三鷹の宮柊二先生のお宅でごらんになった。なにしろ、山形だ。先生の逝去は昭和61年12月、ご葬儀では会葬の人波の誰よりも背の高い氏の姿はよく目立った。

  大会などでお会いする度に「柳川に来て」と、何度お誘い頂いたことか。いくら偉丈夫でいらしたとはいえ、年の嵩(かさ)にはかなわない。平成18年春、87年の生を終えられた。

  氏に賜ったさまざまなおみやげがある。長男にはプラチナのボールペン、小さかった末娘には柳川伝承の手毬を、またある時は「宮内庁御用達」のそれはすばらしい箸置を下さった。有田焼の五客の異人さんの表情が愛らしく桐の箱に収まっている。11月2日の白秋忌には、写真、色紙他、数冊の稀覯(きこう)本と白秋ゆかりの品々を机上に、ゆかりの方々を偲びたいと思っている。

  (八幡平市、歌人)


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