盛岡タイムス Web News 2010年 10月 30日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉岡澤敏男 烏泊山は童話の舞台

 ■烏泊山は童話の舞台に最適

  賢治の童話には「毒蛾」「氷河鼠の毛皮」のような新聞に騒がれた事件に触発された作品と、「狼森と笊森、盗森」のように地名に由来する「地名譚」作品がみられます。

  「烏の北斗七星」は作品に地名こそ明示されていないが、描かれている情景から〈烏泊山〉が舞台と察知されるので「地名譚」のジャンルに入れてよい作品と思われます。

  その推察される情景とは地形的な要素と、義勇艦隊(19隻)、戦闘艦隊(33隻)、巡洋艦(29隻)、砲艦(25隻)という烏の大艦隊が杉の営舎に宿泊するという要素によるのです。

  烏泊山への関心は短篇「秋田街道」でものぞかせています。深夜の盛岡から仁沢瀬台地まで来て地名不明の〈四っ角山〉で小休止したとき、マッチの明かりで「右手に山がまっくろにうかび出した。その山に何の鳥だか沢山とまって睡ってゐる」という独白があります。

  賢治はわざと「何の鳥だか」と名を伏せて文章にあやをつけたが、この山の杉の林に「烏が沢山とまって」睡っていることを熟知していたのです。

  「烏泊山は苧桶沢(おぼけざわ)の東方篠木山にあり、カラスの群集の宿泊所である」と語るのは、小岩井農場出身で耕耘部で活躍された長老蛯名啓四郎さんです。そして「かつて小岩井農場が毎年飼料用玉蜀黍を八十町歩から百町歩の作付栽培した頃カラスの被害が甚大だった。数百羽千羽のカラスの群団が、玉蜀黍の発芽期に襲来して発芽したばかりの玉蜀黍を引き抜き食い荒らすので、威嚇(空砲)に2〜3人の農夫が当たる。そのほかにネコイラズを玉蜀黍に含ませて圃場に五十粒位置いてカラスをさそう仕掛け、これは成功した。カラスは発芽したものを引っこ抜いて下部の実を食うより簡単に一時にたくさん食えるから、またたく間に効果が現れる。一度飛び上がって間もなく近所の沢か、林に落ちて死ぬ。…日暮れになってもねぐらに帰らずうろうろしているカラスも居る。威嚇銃の者がこれを同情して〈仲間はづれの日暮れの烏に/烏泊を知らせたい〉と唄っていた」(昭和58年8月1日発行「小岩井会会報」第7号)と、烏泊山と烏群の消息を回想しており「数百羽千羽」は誇張だとしても、かなりの大群が宿泊していたことを証言しているのです。

  当時の地形図には中腹から山頂にかけて烏の寝床になる針葉樹記号が密に記されている。また山頂付近には広葉樹記号が散在しているので童話の主人公(烏の大尉)が下り立ったという「サイカチ」樹もその記号の一つだったのでしょう。

  さらに山烏の敵艦が停泊する「セピラ峠(大沢坂峠)」は北の方にあり、烏泊山から双眼鏡で栗の木も眺望される距離にある。

  このように、烏泊山は百隻以上の烏の大艦隊の停泊(宿泊)が可能であり、また北方の敵艦(山烏)と交戦する大沢坂峠の戦場が烏泊山の版図(領海)にあるので童話の舞台として最適の条件を具備していたとみられます。

  もう一つ見落としできないことは烏泊山に連なる稜線に中将森山という尾根がある。標高の記載はないが等高線をたどれば烏泊山より約20bほど低く360b台の尾根とみられる。これは明治44年測図大正4年製版の2万5千分の1の地形図に表記されており、同じ4年製版の5万分の1の地形図には中将森山の記名が省略されている。

  旧篠木村第四地割に中将という集落があったので中将森山の名称はこの中将集落と地縁をもつ地域山名だったのでしょうか。

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