盛岡タイムス Web News 2010年 11月 7日 (日)

       

■ 〈音読・現代語訳『あこがれ』石川啄木〉31 望月善次 五月姫

夢の谷、
新影(にひかげ)あまき
五月(さつき)そよ風匂ひたる
にほひ紫(むらさき)吹く桐(きり)の
夢の谷、
青草眠る
みどり小牀(をどこ)に五月姫(さつきひめ)、
白昼(まひる)うるほふ愛の夢。
 
まぼろしの
姫がおもわは
ハイアシンスの滴露(しただり)の
黄金(こがね)しただりなまめける
水盤(すゐばん)の
そしらぬ光。
夢は波なき波なれや、
香膏(にほひあぶら)の恋の彩(あや)。
 
黒髪の
さゆらぎ似たり
むらさき房(ぶさ)の桐の花。
花はゆらぎて、わかやげる
紅(あけ)の唇(くち)
ほほゑみ添へば、
白羽夢の羽かろらかに
小蝶とまりぬ、愛の香に。
 
媚風(こびかぜ)の
けはひやはらに
額(ぬか)にたれたる小百合花(さゆりばな)。
小百合にほへば、我が姫の
むね円(まろ)き
ゆめも匂ひぬ、
谷もにほひぬ、天地(あめつち)の
光も夢のにほひ園(その)。
 
夢の谷、
ゆめこそ深き
ここぞ匂ひの愛の宮。
宮の玉簾(たまだれ)むらさきの
英華(はなぶさ)に
今ひるがへれ、
シヤロンの野花(のばな)谷百合(たにゆり)に
ひるがへりたる愛の旗(はた)。
 
姫が目は
外にとぢたる、
とぢたる園の愛の門(かど)。
園をうがちて、丘こえて、
をどりつつ
生(せい)の小〓(をじか)の
おとづれ来(く)らば、姫が夢
柘榴(ざくろ)と咲かめ、甘き夢。
 
まぼろしの
さめてさめざる
(げにさもあれや、)生(せい)の谷(たに)。
谷はつつみぬ、いにしへゆ
まぼろしの
さめてさめざる
光、平和(やはらぎ)、愛の夢、
眠(ねむ)りに生(い)くる五月姫(さつきひめ)。
             (甲辰五月十六日)
 
  五月姫〔現代語訳〕
 
(五月の風光がおりなす)夢の谷よ、
(若葉の)新しい影も甘い
五月のそよ風が匂っている
紫の匂いも吹く桐の木もある
この夢の谷は、
(若葉の)青草が眠る
緑の小さな床に五月姫は、
白昼に潤う愛の夢の中にいるのです。
 
幻の
(五月)姫の面輪は
ヒヤシンスの滴っている露の
黄金が滴り艶めいている
水盤の
何も知らぬような光。
夢は、波のない波のようなものでしょうか、
匂い油の恋の彩りは。
 
黒髪の
揺らぎに似ているのです
紫の房の桐の花は。
花は揺れて、若々しい
紅の唇
微笑みを添えると、
白い羽の夢の羽も軽やかに
小蝶が止まったのです、愛の香りと共に。
 
艶めかしい風の
気配も柔らかに
額に垂れている小百合の花。
小百合が匂えば、私の姫の
胸の円い
夢も匂ったのです、
谷も匂ったのです、天地の
光も夢の匂いの園よ。
 
夢の谷よ、
夢も深い
こここそ、匂いの愛の宮殿です。
その宮殿の簾、紫の
花房に
今こそ翻ってください、
あのシヤロンの野花の谷の百合に
翻っている愛の旗が。
 
姫の目は
外に閉じている、
閉じている園の愛の門です。
園を打ち壊し、丘を越えて、
踊りながら
生きている小さなノロの
訪れが来るならば、姫の夢は
柘榴と咲くだろう、甘い夢となり。
 
幻が
醒めているような醒めていないような
(本当にそうですね、)生の谷よ。
谷は包んでいます、昔から
幻が
醒めているような醒めていないような
光であり、平和である、愛の夢よ、
ああ、眠りに生きている五月姫よ。
             (明治三十七年五月十六日)

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