盛岡タイムス Web News 2010年 11月 20日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉187 岡澤敏男 中将森山は越前広信の依代か

 ■中将森山は越前広信の依代か

  篠木で百姓をしながら用水路の完成を期す綾織越前広信だったが、南部氏にとっては要注意人物として警戒していたらしい。開田の恩恵を受けた厨川通6カ村の農民たちから神様のように崇敬されるので、南部氏は家臣(武田丹後)を大釜に潜伏させて広信の動向を監視させたという。

  そうした陰湿な監視下におかれた綾織越前は村人に迷惑がかかってはいけないと、滝沢を去って雫石郷つなぎ村尾入に移住し、南部氏に憚(はばか)って姓を藤平と改めたことが、尾入郷の藤平家に伝わる系図の綾織越前広信に関する譜からうかがわれます。譜の後段に次のような記述がある。

  (最上の乱の出陣に関連し)「広長公ノ帰路ヲ遮テ逆進ノ輩、国境ニ伏兵ヲ備ヒ、主君ノ先陣父久之進、神明ニ指揮スルト雖モ、遠野ヘ御入国スルコト能ハズ(中略)後ニ遠野領ハ利直公ノ領地ト成リ依テ広長公ノ臣ニシテ、綾織ノ姓南部家ニ憚リ、藤平ト改メ農ニ帰シ、慶長十八年七月十八日七十二歳ニシテ死去」

  越前堰は慶長16年に完工したといわれるので、広信は尾入郷にあっても用水路に渾身の力を注ぎ、完工を見届けてからその2年後に他界したとみられ、まことにみごとな〈貴種流離譚〉の結末です。

  厨川通(篠木、大釜、大沢、鵜飼、土淵、平賀)の農民たちは越前堰の偉業に感激・感謝して水神として祀(まつ)ることにしたという。

  南部氏への憚りもあり、綾織越前を神として祀ることはできないので、現在の田村神社の境内に「山王社」をつくり、越前の霊を祀って3月21日をお祭りの日としたという。また村の有志たちが相談して越前が綾織に蒼前の社を建てて祭ったという。

  これは綾織越前が愛用した白い駿馬を越前の依代(よりしろ)として祀ったもので、神社を篠木村の2カ所(綾織蒼前、白松蒼前)に建て3月18日を祭日として越前広信の霊を祀ったと『たきざわの今・昔』にみられる。

  白馬に騎乗した綾織越前が岩手山の中腹の白川沢に水源を発見し、大小七筋の沢を連結して黒沢川に合流させてから分水し、仁沢瀬渓谷から丸谷地(現在の小岩井農場)を縦貫させ苧桶沢から烏泊山のふもとをう回して篠木村まで通水させるという8里に及ぶ大用水路計画を策定し、さらにその掘削費用全額を負担したというのですから、たしかに神様として祈念すべき存在だったのでしょう。

  厨川通6カ村の人たちが越前広信の霊を祈るために篠木村に「山王社」や「蒼前神社」を建てて祭ったが、越前広信への崇敬はそれで終わったわけでなかったのでしょう。6カ村から見える烏泊山の尾根に越前の依代を共同幻想し〈中将森山〉と名付けたと推理されます。そして〈越前森山〉でなく〈中将森山〉としたのは、単に南部氏への憚りだけではなかったと考えられる。

  「中将」の語源は上代の朝廷を護衛する近衛府の次将の名称であり、遠野郷領主阿曾沼公を補佐する武将だった綾織越前にふさわしい官職といってよいのです。村民たちは、綾織越前にいつまでも6カ村を護衛して欲しいという意をこめて〈中将森山〉と命名したものと思われます。

  田村神社を訪れてみると、綾織越前の霊を祈るため境内に建立したという「山王社」の跡形もなくて寂しい。しかし2カ所にあったという蒼前社の一つが馬頭観音堂として綾織越前ゆかりの青雲院前に移設されて居り、奉納の赤い幟が風に翻っていたのでした。

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