盛岡タイムス Web News 2010年 11月 27日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉188 岡澤敏男 もう1人の「中将」

 ■もう一人の「中将」

  童話「烏の北斗七星」は「海軍軍縮」問題に想を得てイメージされたと先の段階で推理したが、この童話が書かれたという大正10年12月の新聞の社会面は、たしかにワシントン会議(華盛頓会議)に関する記事で一色だった。

  マイクロフィルムの「岩手日報」を追いながらある興味深い人物に出会い注目しました。その人は加藤寛治(ひろはる)という軍縮首席顧問の海軍中将です。

  ワシントン会議は11月12日に開催されるので日本の全権委員加藤友三郎海相一行は10月28日にシャトルに向かったが、加藤寛治中将は全権らに先立ち10月21日にワシントン入りをしている。

  特派員は加藤中将が各界と接触する動向を連日のように報じているが、加藤中将は米英との海軍比10対7(7割)という日本の立場を強弁する論客として注目され、米国の海軍代表とツーショットの写真まで紹介されている。

  だがこの7割の条件は閣議の決定事項であった。10月25日の岩手日報の大きなコラム欄に「米人記者を煙に巻く/加藤中将の斬れ味」とする特派員の記事が載っている。

  それはホノルルでの記者会見の模様で、論客加藤中将が外人記者を相手に当意即妙のコメントをして煙に巻いたという内容で、「来たるべきワシントン会議で海相加藤全権を援けて攻勢的花形役者たるべきは期して俟つべき」と加藤中将を評していた。このように新聞が連日のように加藤中将を大きく取り上げているので、恐らく賢治とて加藤中将の存在に気付いていたのではないでしょうか。

  米英のターゲットは明らかに日本海軍の縮減にあった。加藤中将があちこちで7割説を陳述するので米英は調整に苦慮したらしい。しかし日本政府は海軍比率の譲歩を訓令し、12月12日に全権は加藤中将の7割説を抑え、主力艦の対米英比6割(5、5、3)を受諾した。

  だが譲歩の見返りとして戦艦陸奥は保持され、太平洋における軍事施設(ヤップ、グアム島などの)の現状維持が認めらることになったから加藤寛治中将の7割強硬策は、たしかにコラム評が指摘したように海相加藤友三郎全権を援けたことになった。

  ひるがえって童話「烏の北斗七星」の着想を考察すれば、「海軍軍縮問題」に想を得たという推理にはおぼろげながら加藤寛治中将の影が浮かんで来ます。

  地質調査に訪れたころの烏泊山にはおびただしい数の烏たちの夜の宿だったから、百隻以上の烏の艦隊の停泊基地に格好な舞台と想定したとみられる。ところが地図を見て烏泊山の南につづく尾根に「中将森山」という山名のあることに気付いたとき、とっさに、加藤寛治中将が連想されたのかもしれない。そして童話のなかの艦隊長の大監督のモデルに加藤中将を比擬したものではないでしょうか。

  このように篠木山の一角に存在する中将森山とは、越前堰を開発した武将綾織越前の依代とも重なるし、またワシントン軍縮会議で名をはせた加藤寛治中将とも重なりまことにロマンあふれる山名なのです。

  賢治が地質調査で篠木坂を下ったときに出会った田村神社の境内には綾織越前を祭った「山王社」があり、社殿の東側を越前堰の用水路がとうとうと大沢村方面に流れ、それから東南に大きくカーブして平賀新田の広々とした水田へと向かう光景を眺めながら、つめたい冬の「トタン板を広げたやうな雪の田圃に」横にならんで仮泊する烏の義勇艦隊を幻想したのでしょう。

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