盛岡タイムス Web News 2011年 1月 7日 (金)

       

■ 〈野村胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉7 八重嶋勲 併せて深く謝す、平素の疎遠を

 ■阿部哲三

  13 はがき 明治31年8月6日付
 
宛 紫波郡彦部村大字大巻長澤尻 野村長四郎方 野村長一様
発 盛岡市仙北町組町 阿部哲三
拝啓貴家逗留仕候間は、種々御懇情ニ與リ、万々奉鳴謝候、小生も無恙五日午後五時帰宅仕候間、御休神被成度、追而貴君御帰りの節は舟場にてはなほ舟を渡せしにや如何ニ一寸伺上奉リ候、早々
  八月六日午前

  【解説】長一の家に泊まったことの礼状。きっと日詰停車場から汽車に乗り盛岡へ帰ったであろうから赤石船場を渡ったと思われる。この文面から長一が舟をこいで渡っているようである。長一17歳、中学2年生。阿部哲三は、岩手県盛岡中学校を明治34年卒業というが、卒業生名簿に見当たらない。長一の初めの1年生の同級生だったらしい。
 
  ■平賀宇兵衛

  14 はがき 明治32年1月1日付
 
宛 紫波郡彦部村大字大巻 野村長四郎様方 野村長一君
発 盛岡市仙北町 平賀宇兵衛
謹賀新年
併セテ平素之疎音ヲ謝シ深貴下の萬福ヲ祈ル
      盛岡市仙北町
  明治丗二年 一月一日  平賀宇兵衛

  【解説】平賀宇兵衛は、岩手県尋常中学校2年生で長一の同級。明治35年岩手県盛岡中学校を卒業、仙台専売局に就職。
 
  ■菊池健次郎

  15 はがき 明治32年1月1日付
 
宛 岩手縣盛岡市四ッ家町六十九 野村長一様
発 東京牛込區若宮町二十六 菊池健次郎
恭賀新年
併而深謝平素之疎遠
己亥正月元旦
    東京牛込區若宮町二十六
        菊池健次郎

  【解説】菊池健次郎は、現紫波町古舘出身。菊池寿人東京第一高等学校長の弟。医学士。岩手県盛岡中学校を明治34年卒業。明治29年4月、長一が、岩手県尋常中学校入学のため盛岡に出、猪川塾に下宿するが、野村胡堂著『随筆銭形平次』に「(前略)首尾よく入じゅくをすませた私は階下の階下の八畳-先生の居間の隣り-へ落ちつくことになりました。同室者は亡くなった俳人露子の岩動孝久君、一高の校長だった菊池寿人先生の令弟で、たしか医学士になっているはずの菊池健次郎君、それにもう一人、猪狩(見龍)君が加わっていたかもしれない。岩動、菊池の両君と私は、紫波郡の同じ小学校の出身で、顔なじみでもあり「さぞ親しいだろう」と老先生は考えられたようですが、それが大変な間違いで、菊池君と私はなんの因果か犬と猿よりも仲が悪かったのです。なんでも床に入ってから「水と火はどっちが大事か」、「豊臣秀吉と徳川家康はどっちがエライか」といったような、他愛のない議論をしたのが原因だったようです。菊池君は皮肉屋で、私は少々馬鹿でしたが、双方理屈っぽくて、負け嫌いだったものですから、よいから議論を始めると、大抵夜中まで火花を散らして-イヤ口角あわを飛ばして-やりあうのです。本人は寝ているから大した骨も折れませんが、お隣りに陣どっている老先生がたまりません。いつまでたっても火は水より大切だともきまらず、豊臣秀吉が徳川家康よりエライとも決定しないのですから、この討論が毎晩々々根気よく続きました。(中略)「野村は二階の部屋に移れ、どちらが悪いというわけではないが、一緒におくとお互いのためにならないから…」といい渡されて、皮肉屋はそのまま下に納まり、薄馬鹿はとうとう二階へ追い上げられてしまいました。」という随筆がある。なお、菊池寿人東京第一高等学校長は、長一が同校入学に当たって、保証人になっていただいているという。
(紫波町彦部公民館長) 

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