盛岡タイムス Web News 2011年 1月 21日 (金)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉22 古水一雄 第十七 杜陵夜学会、余ニモ歴史ヲト

 例によって通巻第15・16冊は現存していない。したがって明治39年(1906年)2月19日から3月23日の間は空白である。皮手帳の通巻第17冊は3月24日から4月30日までの日記である。
 
  3月27日には“今日ハ節句、雛祭モ今日限リ、明治39年ノ雛祭モ已ニ過ギ去リヌ、駄句四十バカリ、後年ノ笑ニ供ス”とあるから当然旧暦で祝ったものである。しばらくはひな祭りの句を作りながら「俳星」に40句ばかりを投句したりもしている。「俳星」は、子規門下の俳人・石井露月が秋田に帰って主宰した当時としては東北一の規模を誇る俳句結社である。(なお、このときの俳句は、後日16句掲載されている)
 
  ところで、4月も中旬に春又春の身辺に新たな動きが生じることになる。それは、終世の親友である武蔵孝吉(むさしこうきち、号・東風)によってもたらされる。
 
     
  日記「第17」  
 
日記「第17」
 
  四月十九日
   (前略)夕景、東風兄来ル、共ニ長岡
   兄、荒木田兄と城山ニ散歩、雲カ山ノ
   景色、夜ノ城跡、東風兄宅ニ入リテ杜
   陵夜学會設立ノ件ニツキ語ル、余ニモ
   歴史ヲ持ツテ呉レトノ事、コマツタ事
   ダ、余ハ歴史ヲヤツテルトドウシテ見
   ユルダロウ、実際ハサッパリワカラム
   ノダ
 
  教員志望の東風は、盛岡中学校を春又春と同じ年に退学しているが、何らかの形で教員としての道を切り開きたいと願っていて、杜陵夜学会なるものを思い立ち、友人たちに呼びかけたのである。

  春又春に歴史を担当してくれと頼んだのは、おそらく東風との交流のなかで歴史家について話題にした(日記のなかに歴史家たらんとする春又春の記述が散見する)ことがあって、そのことが東風の頭の中にあったからであろう。

  しかし、春又春は体系的な歴史の知識が備わっていないことを自覚していて、とても教えるだけの力量がないと感じ、「コマツタ事ダ」「実際ハサツパリワカラムノダ」と当惑しているのである。
 
  その後、おそらく事前に東風から連絡が入っていたのだろう、夜学会の準備会へ出かけている。
 
  廿一日
   (前略)東風會ノ臨時會、八時頃鍛冶
   町ニタズネシニ會場ワカラズカヘル
 
  と、いたって消極的な態度なのである。しかもその夜には、再び“背中カラカケテ左リノ横腹痛ム、息スレバ痛ム、久シク坐シテ立テバギクリヒゞキテ立テヌ”といった症状が始まったのである。
 
  廿三日
   肋膜見(ママ)テ貰フニ工藤病院ニ行
   ク、ナカナカ見テ呉レヌ、朝飯デモク
   フテルノカ、例ノハイカラ化粧ニテモ
   ヒマ取ツテルノカ、待チ遠シクテタマ
   ラヌカラ出タ、鍛冶町ノ杜陵夜学會ニ
   一寸立チ寄テ長岡君ニ會フタ、ソレカ
   ラ出カケテ大森医(盛岡病院の)ニ診
   テ貰フタラ肋間神経痛ダトノ事、開キ
   ヲツケテ上マショウ(この文の意味は
   不明)肋膜ジャナゴザンゴザンスカ
   (意:肋膜ではないでしょうか)ト聞
   イタラ、水ヲ持タヌカラ安神(心)ダ
   トイフ、粉薬貰フテ、雨ガザアザア降
   リ出シタカラ傘借リテ帰ツタ(後略)
 
  しかし、この夜も痛みは続いたのであった。

  26日には胸の痛みは小康を得たのか、夕ころになって夜学會場に東風を訪ねている。そして、翌27日の夕刻には東風宅を訪ね看板を寄附したのであった。

  こうして、4月下旬から5月にかけて杜陵夜学會のために心を煩(わずら)わす日々が続くのである。

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