盛岡タイムス Web News 2011年 1月 29日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉196 岡澤敏男 犬神の出現

 ■「犬神」の出現

  「若い木霊」の先駆作品「若い研師」、「研師と園丁」のなかに「雪の死火山」が背景として描かれていることは、登場する主役が研師、若い木霊、タネリと違っていても、これら一連の作品の舞台として岩手山麓が設定され、新奇さに満ちた早春譜の風光が描かれているのです。

  「若い木霊」は枯草の丘の窪みのはだれ雪、裸のまんまの所在ない柏や栗の木に声を掛けながら野原を越えていきます。空を見上げ「ふん、日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもないな。何かかう小さなすきとほる蜂(すがる)のやうなやつかな。ひばりの声のやうなもんかな。いや、さうでもないぞ。をかしいな。おれの胸までどきどき言いやがる。ふん。」と独り言いながら雪の消えた南面の窪地の黒土を見ると、湯気がたって「ふくふく春のよろこびを吐いて」います。また地温で春の訪れを感知した蟇(ひきがえる)が、冬眠の土中から元の池に帰巣して行きながら「鴇の火だ。鴇の火だ。もう空だって碧くはないんだ。桃色のペラペラ寒天でできてゐるんだ。いい天気だ。ぽかぽかするなあ」とつぶやくのです。蟇の言う「鴇の火」とは空を桃色に染め上げるというイメージ、「寒天」とは「蟇の卵」の比喩として受け取られます。
  春と修羅 第二集」の詩「春」(別題〔向ふも春のお勤めなので〕)に「桜の花が日に照ると/どこか蛙の卵のやうだ」とあるように桜の花の桃色が蛙の卵を隠喩するのです。すなわち「鴇の火/桃色/寒天‖蛙の卵」が連想される。これについて平沢信一氏は「春になって土中から地上にはい出て来て卵を生み付ける〈蛙〉は、無意識の中に埋もれていた性の衝動が、春と共に目覚めて意識を支配していくことのヴィジュアルな隠喩的イメージ」(『宮沢賢治ハンドブック』)と評していることは興味深い指摘です。
  たしかに「若い木霊」が「そらでも、くさのうへでも、いちめんももいろの火がもえてゐる」と交感するのは「春のめざめ」の告白で、賢治の心の深層にも「若い木霊」のような官能を秘めていたのかも知れません。

  入沢康夫氏は「賢治の童話の魅力は、また、(……)《おそろしさ》と通ずるものである。その作品を読みすすんで行くとき、筋の上では別にどうと言うこともないささいな部分から、一種異様な、日常のぼくたちの生活では全くなじみのない空間が、ぽっかり口を開くのがそこここで感じられる」(「鴇という鳥」賢治童話の〈解析〉)と指摘し、「鴇」の果たす不思議な役割について「別世界の入口まで誘って行くものとして登場している」と述べている。
  終末に「まっ青な顔の大きな木霊」とは「大人の精霊」をあらわすもので、年少の「若い木霊」にとって異世界の巨人として戦慄したのです。「タネリは」において鴇は「別世界の入口まで誘って行く」役割をもつ鳥として描かれているが、「タネリは」の鴇には桃色のイメージが払拭されています。また別世界(暗い巨きな森)の入口には「顔の大きな木霊」でなく「顔の大きな犬神みたいなもの」がじっと立っていたのでした。
  「犬神」出現は明らかに「サガレンと八月」を想起させる。しかし失敗したこの草稿を継承したのではなく、全く新しいモチーフのもとに再構成した作品です。

 ■童話「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」(抜粋)

  鳥ははるかの西に外れて、青じろく光ながら飛んでゐきます。タネリは、一つの丘をかけあがって、ころぶやうにかけ下りました。そこは、ゆるやかな野原になってゐて・向ふは、ひどく暗い巨きな木立でした。鳥は、まっすぐにその森の中に落ち込みました。タネリは胸を押さへて、立ち止まってしまひました。向ふの木立が、あんまり暗くて、何の木かわからないのです。ひばよりも暗く、榧よりももっと陰気で、なかには、どんなものがかくれてゐるか知れませんでした。何かきたいな怒鳴りや叫びが、中から聞えて来るのです。タネリは、いつでも遁げられるやうに、半分うしろを向いて、片足を出しながら、こはごはそっちへ叫んで見ました。(中略)

  いつの間にか森の前に、顔の大きな犬神みたいなものが、片っ方の手をふところに入れて、山梨のやうな赤い眼をきょろきょろさせながら、じっと立ってゐるのでした。(以下略)

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