盛岡タイムス Web News 2011年 2月 23日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉217 伊藤幸子 「来る、来ない」

 来むといふも来ぬ時ある を来じといふを来むとは 待たじ来じといふものを
                              大伴坂上郎女
 
  万葉集巻四相聞の部より。こむ、こぬ、こじの読みが5個もある。私はこれを読むたび舌がもつれ、頭がこんらんし、あたかも滑舌のリハビリかと笑うのだが、時に自分の記憶力を確かめる意味でひとりつぶやく。

  意味は「来るつもりだといっても来ない時があるのに、来ないつもりだというものを来るだろうと待つことはすまい。来ないつもりだというものを」(岩波日本古典文学大系)。

  この女人は、万葉集編集の大伴家持の叔母。奈良時代きっての女流歌人で収載歌多数。同じ恋の巻に「恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠(こも)るらむしましはあり待て」とも詠まれる。「恋しく思い思いして、やっと逢ったものを。月が見えているからまだ夜は深いでしょう、もうしばらくそのままでおいで下さい」そして詞書きに、いらつめとお相手の安倍朝臣蟲満(むしまろ)はいとこ同士で「相語らふこと密(こまか)なり。いささかたはぶれの歌を作りて問答をなすとぞ」と記される。

  その流れで読めば、来るのか来ないのか、待つのか否かの一首も笑って解釈できようというもの。「来じといふを来むとは待たじ」がなんともいえぬ女心で、来ないといってもあるいはとの心の揺らぎが見てとれる。このひたむきさが哀しくて、おかしくて。やっぱり「来ないといっているのだもの」と自分で自分に納得させるまでの期待、推量、逡巡の間合いは現代にも十分通ずるみずみずしさだ。

  さて、そんな呪文をとなえているところに郵便物が届いた。神戸は南京町の春節祭の写真がどっさり。広場をうめる春衣の人々と、金銀極彩色に飾りたてられた巨龍をあやつるスケールの大きい祭りの場面だ。昔から海外への航路が開け、今に続く中国の旧正春節を祝う伝統と大衆の熱意が伝わってくる。

  ふっと、1300年の時をこえて、万葉人達と大陸文化の交流を思う。むらさき野ゆきしめ野ゆき、即興で詠み、応えて綴る歌垣。きっと彼女たちも現代版メールを発信していたにちがいない。深刻でもいやみでもなく、ちょっとすねてみたつぶやきを次々と消し去って、また新しい恋を求める。機智と情愛いっぱいの豊かな万葉ワールドがまばゆく輝いている。
(八幡平市、歌人)

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