盛岡タイムス Web News 2011年 2月 24日 (木)

       

■ 「彦御蔵」「繋の板碑」 盛岡市の指定文化財に

     
  彦御蔵(盛岡市教委提供写真)  
 
彦御蔵(盛岡市教委提供写真)
 
  盛岡市文化財保護審議会(細井計会長)は23日、同市中ノ橋通1丁目のプラザおでってで開かれ、同市内丸の「彦御蔵」(ひこおくら)1棟を市有形文化財(建造物)に、同市繋の「繋の板碑(石卒塔婆)」(つなぎのいたび・いしそとば)1基を市有形民俗文化財に指定するよう八巻恒雄教育長に答申した。3月の教育委員会議で正式決定すると、市指定文化財は267件に。有形文化財は143件目、有形民俗文化財は35件目の指定となる。

  同市教委によると、彦御蔵は、史跡盛岡城跡内にある旧盛岡城の土蔵。木造2階建て、延べ床面積は360・50平方b。1989年までは現在地から西100bの市道西側にあったが、道路の拡幅により現在地に移された。詳しい建築年は不明だが発掘調査の結果などから江戸時代後期の建物と考えられている。梁(はり)は野太く豪壮なもの。湿気や防火にも配慮したしっかりとした構造で、道具蔵として使われていたとみられる。

  盛岡城内の建物は明治期に商家などへ払い下げられた経緯があり、彦御蔵は当時の建物としては盛岡城内に残っている唯一の建造物。史跡盛岡城跡とともに保存活用することが望ましいとされた。

     
  繋の板碑(盛岡市教委提供写真)  
 
繋の板碑(盛岡市教委提供写真)
 
  繋の板碑は、同市繋字湯ノ舘地内の繋共同墓地の瀬川家墓地内に建てられている大型の供養碑。地上部分の高さは224a、幅60a、奥行き56a。玄武岩製。石碑の正面に胎蔵界大日如来を示す、種子(梵字・ぼんじ)の「ア」1文字を刻んでいる。記念銘などはないが南北朝時代(1336〜1392)に、当時の領主層が建立したと考えられる。

  瀬川家は御所ダム建設以前、繋字下禰宜屋敷にあり、同じところにあった大宮神社の別当を兼ねた羽黒修験山伏の末裔(まつえい)。屋号は正福院。この板碑も下禰宜屋敷の瀬川家墓地にあったが、御所ダム建設に伴い73年に、他の墓石とともに現在地に移転した。

  板碑は関東地方を中心に多数見られるが、県内では県南地方の分布にとどまる。盛岡周辺や県北地方では数少ない貴重な中世の板碑という。


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