盛岡タイムス Web News 2011年 7月 5日 (火)

       

■ 〈不屈の意志〉復興釜石新聞・川向修一編集長に聞く 復興釜石と歩みを共に〜その1

     
  「人がつながる身近な情報を発信したい」と話す川向修一さん  
 
「人がつながる身近な情報を発信したい」と話す
川向修一さん
 
  6月11日に創刊された「復興釜石新聞」編集長の川向修一さん(59)。津波で被災し休刊となった釜石地域の地域紙「岩手東海新聞」の元記者で、30年以上地域の暮らしを見詰めてきた。製鉄業を中心に活気にあふれていた釜石。高炉の休止で人口が激減する中、踏ん張る釜石の姿も知っている。そして大震災、津波。古巣はなくなったが、復興に歩み出す釜石の今を仲間とともに伝える。(馬場恵)

  -震災当日は。

  川向 会社で原稿を書いていて、地震の後、すぐ海を見に行った。津波は確実に来ると思ったが、あれほど大きいものがくるとは、うかつにも思えなかった。海上保安部の建物の下で写真を撮っていたら、3階で沖を見ていた職員たちが「もうそこまで津波が来ているから逃げろ」と。慌てて引き返し、会社の近くにある高台の石応寺に子どもたちが避難している写真を撮りに行った。そこで津波が来た。

  夕方まで水が引かず、寺から一山越えたところにある病院に社員数人と一泊。翌日、会社に戻ったが、がれきで埋まった町は歩くのもやっとだった。

  社屋1階にあった輪転機は泥水に浸かってしまっていた。まず互いの家族の安否を確かめようと、その場で解散。壁新聞を出して頑張った新聞社もあったと聞いたが、そういう状況ではなかった。

  -岩手東海新聞が休刊となり複雑な思いがあったのでは。

  川向 一番地域のために役立たなければならないときに何もできなかった。おわびの気持ち、穴埋めしなければいけないという気持ちはずっとあった。だが、これまで地域の期待に応える新聞作りができていたのか自信がなかった。いろいろな事情で新聞社自体が行き詰まっていて休刊せざるを得なかった。そういう会社にしてしまった責任の一端は自分にもある。自分はもう安易にこういう仕事に就くべきではないとまで思った。そこへ市から直接、緊急雇用対策事業の提案があり、ほかからも支援の申し出があった。この話をうまくつなげて生かせれば、地域の皆さんの役に立つ形にできるのではないかと。自分は編集長という器でもタイプでもない。でも、つなげることはできる。たまたま、そういう立場にいた。
     
  避難先の川向さんの妻の実家の2階が「復興釜石新聞」の編集室。「本当にいい仲間に恵まれた」。  
 
避難先の川向さんの妻の実家の2階が「復興釜石新聞」の編集室。「本当にいい仲間に恵まれた」。
 

  -大きな責任をわずかな社員で担うことになった。

  川向 見切り発車。しっかりとした志、見通しがあって始めたわけではなく、決して美談ではない。「無責任だったかも」と思うこともあるが、身近な情報が不足している今やらなければ意味がない。1年先のことを考えたら6月には発刊できなかった。

  大船渡の「東海新報」、気仙沼市の「三陸新報」、石巻市の「石巻日々」…。被災した地域紙が休まず新聞を出し続けている。すごい。出し続けるということがどれだけ大変なことか。仮に社屋が大丈夫だったとしても地域全体が被災しているわけだから。

  -どんな紙面を作りたい。

  川向 地域の人たちがつながる情報、材料を提供するのが一番の役目。幸いにも全戸配布なので、同じ情報をすべての市民で共有できる。これに大きな意味がある。例えば今、釜石では被害にあった地域から、なかった地域に店舗や事務所がすべて移動している。その移転情報のようなものも載せたい。

  釜石には、これまで受け入れたことがないぐらい多くのメディアが入り情報発信し、問題を掘り下げもしている。僕らだけではどう頑張っても追いつかない。ただ、他のメディアがしているのは、外向けの情報発信。逆に身近な情報で存在感を示したい。(その2へ続く)

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