盛岡タイムス Web News 2011年 8月 13日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉224 岡澤敏男 小岩井ハクニー誕生

 ■「小岩井ハクニー」創生

  賢治を魅了した〈小岩井ハクニー〉はどのようにして改良されたのか。

  まずこの改良を思い立った農場育馬部主任の高橋勝四郎の次の追懐を聞いてみよう。

  「サラブレッド種は馬政当局の方針を酌んで(小岩井農場は)輸入繁殖につとめたのであるが、間もなく当局の馬産計画が変更され、また競馬界の馬券禁止等のため、サラブレッドの売れ行きは不振となり、価格は暴落して、育馬部の事業は苦境に陥った。この難局を切り抜けるためハクニー種の改良を思い立ち、サラブレッド種と配合して小岩井独特のハクニー種の育成に努めた」という。

  このなかで勝四郎が指摘した「馬政当局の方針」とは、明治38年に答申された国家的な馬匹改良30年計画のことで、その第1期(明治39年〜大正12年)を18年とし馬匹改良の中心にサラブレッド種を置いていました。

  農場は馬政当局の方針を酌み明治40年に21頭(牡1、牝20)からなるサラブレッド種を英国から輸入し繁殖につとめたが、この21頭のなかにかの優秀な種牡馬のインタグリオー号がいたのです。

  この21頭の輸入にあたり支払った動物代金は9万8千円で、インタグリオー号は1頭たけで1万円を越えたという。『値段の風俗史』(週刊朝日編)によれば、明治40年における白米(10`c)が1円50銭だから現在の4200円(平成23年度)と比較すれば貨幣価値が約4千倍に当たる。明治40年の輸入代金は現代ならば4億円近い高額に相当するとみられる。その当時の農場の売上規模が7万円程度であったというから、育馬に抱く場主岩崎久弥の夢がいかに巨大であったのか思い知らされるのです。

  ところが農場がサラブレッド種を輸入した翌年の41年11月に「馬券発売禁止」(競馬規定公布)が施行されることになった。

  この問題は39年に馬産奨励策として各地に競馬会が行われて競馬熱が全国に広まったが投機的馬券不正が続出したので、社会の批判を浴びて馬券発売が禁止されたのです。その結果、競馬熱挫折を招きサラブレッド種の産駒は暴落し農場も販売不振に陥ることになった。

  次いで42年には馬政当局は馬匹改良の原種をサラブレッド種からアングロノルマン種へと変更することになった。農場は「帝国の馬匹は主としてサラブレッド種をもって改良、18年間はこの方針は変えない」という当局の方針に促され輸入を敢行したのに、ついに農場産駒は1頭すらも国から購入されることがなく1年余りで当局の方針が一変したのです。

  この苦境に際して当時の場内紙「小岩井週報」に「われわれは、たとえ当局の方針が変わろうとも、馬が売れなくとも、良い馬をつくるという覚悟で進まねばならない」と初志を貫こうとする信念を表明しています。

  こうしたサラブレッド種育成に対する二重のしめつけの苦境のなかで、育馬部主任高橋勝四郎がサラブレッド種とハクニー種の交雑によるハクニー改良種「小岩井ハクニー」の生産を発想したのです。

  この「小岩井ハクニー」の誕生の鍵をにぎっていたのはサラブレッド種牡馬インタグリオー号でした。すなわちこの「小岩井ハクニー」は、インタグリオー号の産駒サラブレッド牝馬にブラックフォーマー号を交配するパターンと、ブラックフォーマー号の産駒のハクニー牝馬にインタグリオー号を交配するパターンにより〈第一次ハクニー〉が創生されたのです。

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