盛岡タイムス Web News 2011年 8月 17日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉242 伊藤幸子 「自分の歌」

 「自分の歌」を詠めと言はすに心鳴りてノートに題せり恥なく今も
                        遠藤綺一郎
 
  机上に置けば、ごく普通のA4ノートかと紛う本。肌色に普通横罫をかたどった表紙に、横書きで「歌集 自分の歌」とある。先ごろ頂いた米沢市の故遠藤綺一郎先生の遺歌集である。集名は師、窪田章一郎の言による由。

  私は一昨年夏、「紅花の里」と題してこのコラムに書き、詩歌文学館で橋本喜典先生のご尊顔を拝したことから、歌誌「まひる野」同人の遠藤先生とのつながりに思いをはせたのだった。「先生も古稀は越えられたろうか」と書いた私に橋本先生は「遠藤さんは古稀どころか傘寿もすぎました」とお返事を下さった。

  そのときに、すぐ米沢行新幹線に乗ればよかった。米沢市大町の広い一軒家に12年も住み、子育ては上杉藩の質実剛健の郷土愛に支えられてありがたかった。専業主婦だった私は古典講座で遠藤先生にお目にかかったが、歴史の町の女性多数の教室は実に楽しかった。「○○さんはきょうは、ござんねえな(おみえにならない)」という会話が普通に交わされ、微妙に尊敬、謙譲語の織りなす武家社会が生きていた。

  でも、あの豪雪は苦痛だった。「流雪溝矢と流るるをたのしみて夜半老妻と雪捨て遊ぶ」と先生は詠まれるが、各町筋を音をたてて流れる流雪溝は幼児を持つ身には恐怖だった。

  「ここは昔正門なりき興譲館高校趾にいしぶみの立つ」藩校のこの高校に通った子供たちの苦労話はいつも雪が何よりの敵だった。「しなやかに身心保つは意志ならむゴーゴー踊れるこの老博士」口語短歌の先人大熊信行氏を詠まれた一首。

  岩手の「北宴」編集長の小泉とし夫氏は、はるばると米沢まで調査にいらしたことがあり、博士のお墓をご一緒に訪ねたことだった。今宵、こうして遺歌集をめくっていると、次々となつかしい場所や、人々とのふれあいがよみがえる。

  この歌集にはまた大きな悲しみが載っている。平成19年1月、孫大作さんが京都精華大学1年の時、路上で何者かに刺され絶命。いまだに犯人不明ということである。

  「特甲幹の教育はそも何なりし今に集ひて心かよはす」大正14年生まれの先生は東大を中断して、特別甲種幹部候補生の訓練を受けられた。のちに東大卒、山形県下の教諭、米沢短大教授。平成22年1月逝去、84歳。848首の大冊にふれ、橋本先生の慈愛の解説を読み、私は今つくづく会いたい時、会いたい人に、ためらっていてはいけないと痛感している。
(八幡平市、歌人)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします