盛岡タイムス Web News 2011年 8月 19日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春はぐくんだ書簡群〜学友たちの手紙〉38 八重嶋勲 きなふはあたゝかき

 ■原抱琴

  64はがき 明治34年11月3日付
宛 盛岡日影門外小路南部(小枝)様方 野村長一様
発 大磯南下町天長節の翌日 原 生(抱琴)
 
えんしうにてもりをかもなかなかこゝろいそがしきことゝぞんじまゐらせ候、さてとや、きなふはあたゝかきひよりにて、みやこにこのまゝあらんこゝちもせねば、きしやといふものにてこのちへまゐりまうしそろ、よべはなつかしきなみのをと、こひせるひとのさゝやきときゝてやすらかにねむりにつきまうしそろ、このとしのあまれるつきひ、おほかたはこゝにておくるべうこゝろさだめまうしそろ、うたよみきじんのきみ、ふみうりござんのきミ、すねものきようしのきミ、などへよろしく

  【解説】なぜ全部かな書きにしたのだろうか。江戸時代からの漢文調からかな漢字交じりの新しい文体への移行の試みとしてあえてこうしたのかもしれない。
  盛岡でも、間もない明治42年に観武原に陸軍の駐屯地ができるが、陸軍の演習を行ったのであろうか。東京から汽車に乗って横浜の大磯に来ている。波音で夕べはゆっくり眠れた。今年もあとふた月、大方はここで心を定めたという。歌詠みの箕人君、文売りの五山君、すね者の杏子君らによろしく、という内容である。
  なお、東北本線は明治24年に、上野青森間が全通しているが、「きしやといふものにてこのちへまゐりまうしそろ」とわざといっているのであろう。
 
  ■原抱琴

  65巻紙 明治34年12月16日付
宛 盛岡日影門外小路南部(小枝)方 野村長一様
発 相模大磯南下町 原 達 (抱琴)
 
東都朝に厳霜を見、杜陵既に地に積雪を見ると傳ふ、寒気想ふべし、然かも何等の多福ぞ大磯の地太陽の赫々たる連日、更に冬期の近きを覚えさるなり。
大磯の近来實に平和にして、余は日一日幸福なる生活を楽しむ、而して今やわが友の好配を得たりと聞きてわが幸福なる生活に加ふるところ些少ならざるを感謝せずんばあらざる也、
君が結婚の裏面には義理てふ、つらきもの存すと。しか云ふは君が勝手に属す、只祝するものをして祝せしめよ、
余はこゝに謹んで君が新婚を祝するもの也、
  ゆめ河豚の味な語りそ思ひ妻
  獏枕ひそかに夢や語るらん
君や既に女性の慰籍者を得而して余や之を渇すること久し多少の感なからんや、
   うたゝねの夢驚くや冬牡丹
さるにても君は既に新生活に一歩を進む、君か将来に於て必ず新しき活動あらんことを希望せすんばあらざる也、
余は多くを云はじ、聞く欧州にては新婚者の知己彼より訪問せらるゝ迄は決して訪問するなしと、余も亦長々しき言を以って君を煩はすべからず、只君及び君の新夫人の上に幸福多かれと祈りてやまんのみ、頓首
      十二月十六日     抱琴坊
     菫舟大兄
         床下
  祝辞の後れたるをゆるし給へ、先月末頃突然発熱することありて、怠り居りしが今日に及べり。わが熱は余を苦悶せしむること前後三日、忽然として来たり、忽然として去りぬ、 余や今は実ニ健在、復た往時の蒼顔枯容にあらざる也、

  【解説】この年11月9日(土)に、長一は、親同士の決めた許婚と結婚式を挙げた。長一本人は全く進まない結婚であり、これから7年余り、悩みに悩むことになるのである。この苦衷は、何人もの友人に打ち明けており、「君が結婚の裏面には義理てふ、つらきもの存すと。しか云ふは君が勝手に属す、只祝するものをして祝せしめよ」と原抱琴もこのことを承知しておりながら、この書簡で心のこもった祝辞を贈っている。


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