盛岡タイムス Web News 2011年 8月 27日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉226 岡澤敏男 騎兵第3旅団が盛岡に

 ■騎兵第三旅団が盛岡に創設

  賢治は旭川駅前から乗車した乗合馬車のなかで次のような心象をつづっている。前述した「旭川」の詩の後段にあたる詩章です。
 
  馬車の屋根は黄と赤の縞
  で
  もうほんたうにジプシイ
  らしく
  こんな小馬車を
  誰がほしくないと言はう
  か。
  乗馬の人が二人乗る
 
  前回の掲載写真からは乗合馬車の屋根が黄と赤の縞模様がよくみえないが、「こんな小馬車を/誰れがほしくないと言はうか」と褒める心底には、やはり1年前の5月に小岩井駅前で乗り損ねた農場の客馬車がダブっているのでしょう。〈江戸の仇を長崎で〉ならぬ〈小岩井での仇を旭川で〉という心境がこぼれて見えます。

  二人乗った「乗馬の人」とは第7師団所属の騎兵第7連隊の将兵だったかもしれない。前段で「一列馬をひく騎馬従卒のむれ」と照応するスナップです。

  この乗合馬車の路線は旭川駅と第7師団を結ぶもので旭川駅を発進して師団通を北上し第7師団の各部隊前を通過しながら練兵場を一周するので、各部隊関係者の乗客が多かったのでしょう。

  この交通路線は明治35年に屯田兵制を引き継いだ第7師団の正規編成が完了したことにより上川鉄道馬車会社を設立して開発したもので、路線に軌道を敷設し同39年5月より営業開始すると『新旭川市史』は伝えている。

  客車20台・貨車4台・馬匹38頭・車掌16人・御者17人の「馬鉄」(通称)だったという。1日平均乗客数は1119人で辛うじて黒字経営を維持してきたが、大正6年に第7師団が満州守備を命じられて部隊の大半が旭川を離れてしまったことで、師団用務で往来する乗客が激減。同8年に「馬鉄」は廃業に追い込まれました。

  ところが馬車鉄道の廃止によって旭川駅と第七師団の交通が不便になったので、旭川市が乗合馬車営業者に補助金を交付して定期運行をさせたのが黄と赤の縞の屋根模様をもつ「小馬車」でした。賢治が乗った小馬車は大正8年秋から同13年8月までの期間だけ臨時営業された乗合馬車だったから、賢治がその「小馬車」に乗車できたのは、まさしくラッキーな「無上菩提」というべきものだったのです。

  短篇「柳沢」が大正13年春以降の成立だとすれば、登場する「旭川の兵隊上り」の男を虚構させる条件として12年8月に旭川を訪れていることから目を離せないのが、もっと時間をさかのぼる明治42年7月10日に盛岡に創設された「騎兵第3旅団」との接点にも無視できないフシがみられるのです。

  この騎兵第3旅団は騎兵第1旅団(習志野)、第2旅団(習志野)、第4旅団(豊橋)に次いで、良馬を生む驥(き)北の地の盛岡に創設されたもので、営舎を盛岡市の西北の「下厨川」(現青山町)」に設けられ、前は観武ケ原の練兵場、北方には広大な一本木原の演習場を控え、訓練に格好の地となっている。

  旅団の編成は司令部、騎兵第23連隊、同24連隊(各連隊は五個中隊)より成り、とくに第23連隊には旭川の第7師団に所属する騎兵第7連隊の一部が転出して来ており、また連隊長内田広徳大佐自身が屯田騎兵隊長の経歴をもっております。

  賢治が「旭川の兵隊上り」の人物を登場させる原点に「騎兵第3旅団」との出会いがありそうに見えるのです。

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