盛岡タイムス Web News 2011年 8月 30日 (火)

       

■ 陸前高田と盛岡、いとこの絆 震災から半年

 東日本大震災津波から間もなく半年になる。被災地で暮らす人も、被災地の支援活動に励む人も懸命に過ごした半年間だった。陸前高田市気仙町の磐井律子さん(67)と盛岡市津志田西1丁目の森恵美子さん(62)は、ともに気仙町で生まれ、実の姉妹のように育ったいとこ同士。二人の古里は津波で壊滅的な被害が出た。被災地で新たな一歩を踏み出した磐井さんと、古里の人たちを支えようと奮闘した森さん。それぞれの半年を振り返ってもらった。 (馬場恵)
     
   竹駒小学校グラウンド仮設住宅団地に暮らす磐井律子さん。7月半ば、自分で作った料理を震災以来、初めておいしく感じた。「これで、わたしも立ち上がれる」と思った。  
   竹駒小学校グラウンド仮設住宅団地に暮らす磐井律子さん。7月半ば、自分で作った料理を震災以来、初めておいしく感じた。「これで、わたしも立ち上がれる」と思った。  

  「わぁ、見て、これ。ここにわたしの家があったのよ」。陸前高田市の竹駒小学校グラウンドの仮設住宅団地に暮らす磐井さんは、地元紙に掲載された写真を見て歓声を上げた。写真は、歴史ある商家の蔵と白い花が風に揺れる一面のソバ畑。毎日、同市気仙町のわが家から眺めていた懐かしい光景だ。

  あの日。高台で避難所に指定されていたはずのわが家は津波で押し流された。外出先から慌てて戻り、庭に車を止めたとたん足下に水。避難していた近所の人たちとクモの子を散らすように裏山を駆け上った。真後ろを走っていた80代の男性は頭までずぶぬれ。その後ろにいた人たちは、おそらく間に合わなかった。

  地震の時は高田町中心部の図書館にいた。「こんなに揺れて何もないわけはない。異常だよ」。声を掛けてくれた人がいたおかげで建物の外には出た。今にして思えば、このとき、すぐ高台へ向かうべきだった。だが、初めに耳にした津波の予想波高は3b。「5bの防波堤があれば大丈夫」と過信した。車で海岸そばの国道を通り気仙町のわが家へ。津波が迫っていたであろう海には、なぜか目を向けなかった。交通規制を無視して車が行き交い、津波を避けるための橋のゲートが次々と上がっていくのも見ているのに…。

  津波に追われるように山を越え、隣町の矢作第6区公民館にたどり着いた。寒い夜。着の身着のまま避難した気仙町の人たちと身を寄せた。周りの人も自分も顔が傷だらけ。死にものぐるいで雑木林の中を駆けたため、枝が額や頬を擦るのも気付かなかった。ラジオは「陸前高田市からは何の連絡もありません」と繰り返し伝えていたが、「わたしたちはここ」と声を挙げる術がなかった。

 森さんは盛岡市内で総菜店「もえぎ」を経営している。震災の夜、雫石町網張の温泉旅館のテレビで三陸沿岸の惨状を知った。「まず要るのは食料と水」。1960年のチリ地震津波の記憶が頭をよぎった。

  翌日、朝一番で店に舞い戻り、停電が続く中、大鍋でご飯を炊いた。車に積めるだけのおにぎりとペットボトルを持って、母親のハナヨさん(88)が暮らす大船渡市の施設へ。ハナヨさんの無事を確認し、その足で古里の陸前高田市へ向かった。

  住田町側から市内に入ると、海が見えない気仙川上流の矢作町や竹駒町までがれきの山。変わり果てた町の姿に「言葉もなかった」。かつての記憶をたどりながら山道を走り、高田一中へ。妹夫婦やかわいがっていためい、実のきょうだいのように育った磐井さんら、いとこの行方を必死で捜した。

  人づてに磐井さんの居場所を捜し当て、再会できたのは3月16日の午後。磐井さんは、森さんを見るなり飛びついてきたが、口をついて出た言葉は「誰だっけ」。「しっかりしなさい」。頬をぴしゃりとたたいて気合を入れた。

     
  「伝えます」ノートを手に、陸前高田市に通い続けた日々を振り返る森恵美子さん  
 
「伝えます」ノートを手に、陸前高田市に通い続けた日々を振り返る森恵美子さん
 


  「当時はみんなボーッとしていて正気じゃなかった」と森さん。磐井さんは「今となっては笑い話だけど…」と涙を浮かべた。

 森さんは震災翌日から55日間、休むことなく支援物資を店のワゴン車に満載し、陸前高田市内の避難所へ通った。初めは食べ物、下着、防寒着。「足下が寒くて」と打ち明けられれば、自分が履いていた靴下もぬいで手渡した。デパートや量販店で衣類や日用品を大量購入。盛岡の友人たちが一晩で、不足していた靴を山積みに集めてくれたこともあった。

  行き帰りのガソリン、物資を購入する資金もばかにならない。磐井さんからは「そんな自分を犠牲にしてまで支援することない」と心配されたが、譲らなかった。

  「こんなときは銭金の問題ではないの。命さえあれば何とかなる。あるものすべて出しきったっていい。自分も気仙町の人たちに育てられたのだから」

  総菜店も休むことなく営業した。午前4時には仕込みに入り、昼前には被災地へ向かう日々。避難所で久しぶりに会った同級生たちは、涙ながらに手を握り、はなそうとしなかった。

  多くの親類縁者を亡くした。ごく親しい身内だけで9人の火葬や納骨に立ち合った。3月28日には妹の柴田田鶴子さんの遺体が見つかった。ハナヨさんに事実を伝えると、半狂乱になって悲しんだが「元気な顔を覚えていたいから」とついに亡きがらには会わなかった。そのハナヨさんも体調を崩し、娘のあとを追うように8月8日にあの世へ旅立った。ハナヨさんの納骨を終えた8月21日。やっと「自分の中の3月11日が終わった」と感じたという。

 森さんの手元には大学ノートが残っている。表紙に「伝えます」の文字。連絡手段の途絶えた避難所で、被災者に自分の名前と住所、無事を知らせたい相手の連絡先を記してもらったノートだ。
  「命だけは拾いました」「家はなくなりましたが元気でいます」…。森さんは、このノートを盛岡に持ち帰ると毎晩、知らせてほしいと託された相手を捜し電話をかけた。「車が通れるようになったら迎えに行く」。そんな伝言を受け取ると翌日、避難所に舞い戻って本人に伝えた。

  「携帯電話はつながらない。衛星電話もよく使えない。そんな中で、このノートがどれだけ力になったか。周りのお年寄りたちが泣きながら、えんぴつを走らせていた」と磐井さん。「身内ながら本当によくやってくれた」。いち早く安否確認に動いた森さんの行動を「ぜひ、今後の防災に生かしてほしい」と願う。

 磐井さんは今、週に1回、竹駒小学校で絵本の読み聞かせボランティアをしている。教師や保育士の経験があり、子どもと関わるのが得意な磐井さんにとっては何よりの生きがいだ。「できることは何でもしたい。とりあえず被災した子どもたちの心に寄り添いたいと思う。人様のやっかいになるだけじゃいけない。自分たちも復興に参加していかないと」と前を向く。

  一方、森さんは、少しゆとりを持って被災地訪問を続けながら、総菜店の社長業に力を注いでいる。「周りのみんなに助けられた。できる限りのことはしたつもり」。がむしゃらな日々を支えた従業員や友人たちに感謝する。

  古里の復興には、まだ長い時間がかかる。被災地で暮らす人、周りから応援する人、それぞれに粘り強い努力が求められる。

  「たかが人、されど人。いざとなれば、できる。それぞれ身の丈にあったことを精いっぱいやっていけばいいと思う」。


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