盛岡タイムス Web News 2011年 10月 6日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉19 田村剛一 避難生活2

 町民は、津波の翌日から支援物資に頼る生活に入った。被災者はほとんど着のみ着のまま。被災しなかった人たちも、商店街が一軒も残らず破壊されたので、食料を買えなかったからだ。

  被災者の多くは、学校や担い手センターなど町が用意した避難所に入り、そこで生活することになった。にわか避難所だったので毛布や食料も間に合わない。そこで、支援物資の多くは、こうした公的避難所に、優先的に配られた。それ以外の人たちは、決められた場所で支給された。旧山田地区は、保健センター前。毎日、長蛇の列ができた。一人1個ということで、生きるためにはやむをえないと思い、一度並んだことがある。しかし、知り合いの役場職員に変な目で見られ、以後、支援物資をもらうことはやめた。

  避難所は公的避難所だけが避難所ではなかった。寺は高台にある。津波の時、高台にある寺に避難した人たちもいた。龍昌寺や善慶寺もその一つ。ところが、ここは町から認定された避難所ではなかったので、当初、支援物資は届かなかった。寺の蓄えで避難者に食を与えていたのだ。

  避難には、もう一つ在宅避難があった。私のように、知人宅への避難である。この在宅避難には、支援物資は配られなかった。この在宅避難者、あるいは在宅避難を引き受けた人に対し、もう少し配慮があってよかったのではないか。

  震災後数日して「知り合いが避難して来ているんですが困っています」という相談を受けた。中年の独身女性で夫と死別して単身生活を送っていた。そこに、夫の親とその息子2人と娘1人、それにその娘の知人が押しかけて来たのだ。

  「もう、蓄えがないんです。役場で何とかならないでしょうか」

  それですぐに町役場に出向いた。役場には支援米がどんどん運び込まれていたからである。

  「在宅避難にも米を分けてやったら…」

  ところが回答は「米は指定された避難場所にしか配れない」だった。もちろん、米以外の支援物資もそう。

  数日してこの女性に会った。その時の言葉は「みんなに出て行ってもらいました」だった。その言葉で、おいの家とはいえ、そろそろ自活の道を選ばなければならないと思った。それで家の復旧、後片付けを始めることにした。
  (山田町)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします