盛岡タイムス Web News 2011年 10月 7日 (金)

       

■ 〈大震災私記〉20 田村剛一 避難生活3

 おいの家とはいえ、母と妻、息子と私の4人が世話になると肩身が狭い。「蓄えがないんです」と知人の女性に言われた時、できればわが家に戻り、自活することが一番だ、と思った。しかし、後片付けに手をつけようとしても、まだできる状態ではない。

  それと、私には、別の任務もあった。地区の人たちの安否確認。それに、息子の事務所に通っていた人たちの消息を確認しなければならない。それで、事務所を出る際に「南へ」と言った言葉を思い出し、南小学校へ向かった。

  南小学校は町の奥手にあり、避難所のセンターになっていて、自衛隊の車、赤十字のマークのある車も見えた。医療班らしい人の姿もあった。

  避難所になっている体育館に入ると、通路も人でいっぱいになりそうな避難者の数。知り合いにあいさつしながら、情報通で知られる人を探した。「今までいたのですが」と言う人ばかり、体育館のどこかにはいるのだろうが、人が多くて探しきれない。この人に会えば、事務所に残った2人の様子が分かると思ったが、それができなかった。会えずに帰ったからだ。

  それから小学校の隣に建っている武徳殿に向かった。ここも、避難所になっていた。知り合い数名が車座になって話をしていたので、それに加わった。「何もかも失いましたよ」と力ない。ここに避難している人たちの多くは、津波では建て物は残ったが、後の火事で全てを失ったという人が多かった。

  「家内とは離れ離れになってしまいました」。気の毒な人が多くて、言葉をかけられない。「私たちは、これからどうなるんでしょう」と言われることもしばしば。それにも答えようがなかった。

  私がせいぜい言える言葉は「生き残った私たちが、亡くなった人の分まで頑張るしかないですね」だった。

  妻を亡くしたという同級生に青少年の家で会った。家は防潮堤のすぐ近く。地震を感じた時「父さん逃げよう」と妻に言われたという。「その時逃げてれば」と嘆く。しばらくして、バリバリという音を聞いた。沿岸にある作業小屋の壊れる音だったのだろう。「母さん津波だ」そう言って、妻の手を握って外に出たときは遅かった。自分は気を失ったが助かり、妻は近くで亡くなっていたという。 「死にたいよ」「お前には奥さんを供養する務めがあるだろう」。そう言うしかなかった。つらい思いをしながら避難所生活を送っている人たち。その人たちと会うのもつらかった。
(山田町)

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