盛岡タイムス Web News 2011年 10月 9日 (日)

       

■ 〈大震災私記〉22 田村剛一 不明者捜し2

 行方不明者の捜索は、震災の翌日から、自衛隊や消防団員を中心にして進められ、一般人は極力遠ざけられた。自分の家に入るにも、捜索隊の許可(?)が必要だった。火事場ならぬ震災泥棒を恐れたからのようだ。

  この捜索、初めは生存者救出が主な任務であった。声をかけながら家の間や家の中に呼びかける。次第に生存者発見が少なくなると、口では言わないが、遺体捜索に変わって行った。家の中に入ったり、がれきの山を堀り起こしたり…。

  奥さんが行方不明になった知人2人は、一日中、奥さんを探して、家の周辺を調べていた。その一人、クリーニング店を営んでいた友人は、それから少しして奥さんを見つけた。2人が逃げた店から離れること30b。逃げる時、友人が通った道の近く。がれきの下で見つかったという。

  友人の言うには「眠るようにおだやかな顔であった」そうだ。その顔を見て、友人は、救われる思いがしたと言った。

  この奥さんは、友人と同様、私の支援者でもあった。夫が小学校時代から友人でもあり、また店のお得意だったこともあり、応援してくれた。だが、それだけでなかったような気もする。

  かれこれ10年ほど前のことになるが、盛岡からの帰り、偶然バスで一緒になったことがある。それまでは、あまり口を利いたこともなかったが、この日は別人のように明るく話しかけてくれた。夫と友人だったこともあるし今は亡き姑と私の父は同級生。そのことも知っていて、あるいは身近に感じたからかもしれない。

  バスを降りる時、言った言葉がある。「バスで一緒だったこと、だれにも言わないでください」。その約束は、この日までずっと守り続けてきた。今、初めて、あの時の約束を破ることになるが、奥さんは許してくれるものと信じている。

  日が経つにつれ生存者の救出は少なくなり代わって犠牲者の発見が増えてきた。それでも遺体が見つかる人は幸運としか言いようがない。全く手がかりのない人が多かったからだ。

  「おらいの母ちゃん、どこさ行ったべ」そう言って、必死に妻を探し回る知人の姿を見ていると、気の毒で声のかけようもなかった。

  「どんな姿でもよいから見つかってくれ」。日が経つにつれ家族の口からそんな声がもれ出した。

(山田町)


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