盛岡タイムス Web News 2011年 10月 9日 (日)

       

■ 〈奥尻島視察団が行く〉2 住宅再建支えた義援金

     
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 北海道の最西端に位置する奥尻島。93年7月の北海道南西沖地震の津波被害から5年で復興した島として知られる。集落の高台移転、漁業の再生など東日本大震災の被災地にも通じる課題を乗り越えてきた。町の竹田彰総務課長(58)によると、先例から学ぼうと自治体職員や研究者らが次々と訪れ、普段、静かな島は「視察ラッシュ」の様相だ。

  竹田課長の案内で、奥尻町青苗地区の高台にある住宅団地を歩いた。津波後に集団移転先として新たに造成された団地。70坪ずつ区切られた敷地に住宅が整然と並び、集会所や道営の災害復興住宅もある。

  島最南端の青苗地区は、地震直後の津波と火災で全体の約7割に当たる342戸が全半壊。この地区だけで死者は87人、行方不明者は20人に上った。

  奥尻町は北海道の支援を受け95年3月、「生活再建」「防災まちづくり」「地域振興」の3本柱からなる復興基本計画を策定。これをもとに、青苗地区でも新しいまちづくりが進められた。

  集団移転先となる団地は海抜15bから30bの高台に4カ所造成。宅地95区画と道営住宅82戸が整備された。漁港そばの旧市街地区には、到達した津波高をもとに高さ6bの防潮堤を設置。さらに背後地に土を盛り180区画の宅地を整備した。旧市街地区の造成地は町が土地をいったん買い上げ、造成後に被災者に分譲。当時1坪当たり2万3千円だったという。

  83年の日本海中部地震でも津波にあった青苗岬(海抜2〜3b)は当時の国土庁の防災集団移転促進事業を利用し、高台の宅地に55戸が移転。跡地は災害危険区域に指定して住宅の建設を制限、公園にした。この公園には立体模型などで震災の悲劇とその後のまちづくりを伝える「奥尻島津波館」や慰霊碑「時空翔」が置かれ、多くの観光客が訪れる場になっている。

  被災者の住宅再建を支えたのは、全国から寄せられた190億円余の義援金だ。町予算の約4倍に当たり、町は133億円の「災害復興基金」を創設、73項目に及ぶ手厚い被災者支援事業を展開した。

  見舞金は全壊した世帯に400万円、半壊した世帯に150万円、死亡者1人につき300万円から500万円を支給。自宅が全壊し家を新築する場合には建築のための700万円と家財家具の費用150万円が助成された。

  合わせると最大約1400万円の配分を受けた世帯もあり、小ぶりの家であれば、ほとんど自己負担なしに建てられたという。青苗地区には平屋の2LDKほどの家が目立つが、これらは、こうした事情によるものだ。

  住民は新しいまちづくりに、どんなふうに参加したのか。青苗地区の住民を中心に結成された「奥尻の復興を考える会」の会長だった明上雅孝さん(61)を訪ねた。会は当時、復興後のまちの姿や復興基金の使い道について住民アンケートを実施。住民の意思を行政に伝え、行政の考えも聞きながら、互いの歩み寄りを図る中間組織として機能した。

  「住民の意見が分かれたときは、どうしたんですか」(視察団)。「もちろん多数決です」(明上さん)。青苗地区では当初、浸水区域の全戸高台移転も検討されたが、海のそばに残りたいという漁業関係者ら約2割の住民の意見を反映し、一部高台移転によるまちづくりを選択した。

  「一人でも下に残りたいといえば、全戸移転は無理なんだもの。『下に残りたい人』と言って、手を挙げてもらったら、バァーッと何人も手が挙がった。それを見た行政も『分かりました』と。住民の意見を集約する団体は一つしかなかったから、行政も重視してくれたと思う」と明上さん。

  復興が早く進んだのはお金と土地があったことに加え、町と町民が互いに協力し、回数多く話し合った結果だと振り返る。

(馬場恵、つづく)


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