盛岡タイムス Web News 2011年 10月 15日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉233 岡澤敏男 理助の収監ミステリー

 ■理助の収監ミステリー

  文語詩「秘境」には二つの下書稿があり、前回掲載した4行7連の草稿は最初に発想された下書稿(一)でした。これを推敲し4行4連に圧縮したのが下書稿(二)で、これに少し手を入れ定稿としている。
  定稿には下書稿(一)の第五連・第六連が削除されているので、理助が「まがつみ」により「われ三月囚へられにき」と愁嘆した事件のことを隠しているのです。

  「文語詩 未定稿」にある定稿だけで「秘境」を知る読者には、滝沢御料地の馬番理助が未決のまま3カ月も収監された事情など知るよしもないのです。賢治は馬番理助が毒殺容疑で「三月囚へられ」た事実をどのようにして知り得たのか。または単に虚構として挿入した事件だったのか。

  まったくミステリアスな内容だが、理助の妻が「塩魚の頭」を食べて「もだえ死」したことや毒殺の容疑で理助が未決のまま「三か月」収監されたとの具体的な提示をしていることからみて、まんざら虚構だけだとは言い切れないほどリアリティーがある。理助を仮名だとしても御料地の馬番某なる人物を賢治は実際に知っていたものであるまいか。

  それにしても理助の妻が「塩魚の頭」による不審死を遂げ、理助が「われ三月囚へられにき」という事件の全貌はいかなるものだったのか。この不審屍体を司法解剖した医師がネコイラズやトリカブブトなどの毒物を検出し得なかったにも関わらず、「もだえ死」が毒物による不審死と嫌疑した検察は理助を起訴して未決監獄へ収監し、「三月囚へられにき」と愁嘆させたのでしょう。当時の新聞は「疑問の毒殺事件」としてにぎやかに報道したのではなかろうか。

  公判は月1回行われ、理助は法廷の被告席で不安な時間を過ごしたのであろう。ところが、不明だった不審死の原因が「鮭のいずし」に寄生したボツリヌス菌による中毒死と判明されたらしく、第3回公判において理助は無罪と判決され放免されたものとみられる。

  このように理助が毒殺の冤罪者になったのは、当時の地元の医師は「鮭のいずし」に発生するボツリヌス菌を検出できなかったのが直接の要因だったのです。幸い中央の医療機関によって「いずし」に用いた鮭の頭からボツリヌス菌を検出され中毒死と判明しましたが、その解明に3カ月もかかるほど当時はボツリヌス中毒の発生例が僅少だった事情があったのでしょう。

  だが、昭和59年に岐阜県内で発生したカラシレンコン禍はボツリヌス菌による食中毒事件だったが、最初の患者を受診した岐阜市内K病院の医師は、患者の舌がもつれるという問診によって脳梗塞を疑ったという。その患者が2、3日して死亡したことによって、精密に剖検した結果ボツリヌス中毒と判明したのです。

  その後、カラシレンコン中毒事件は1都、1府、12県に及ぶ大惨事となり患者数36人、死亡11人を数えました。このように昭和59年の事例から考えれば、大正10年代の地方の医師が理助の妻の「もだえ死」に対して、ボツリヌス中毒を検診し得なかったとしてもやむをえなかったものと思われます。

  ところで、「塩魚の頭」による不審死をめぐる理助の冤罪事件が実際にあったとすれば、県立図書館が所蔵する当時の新聞のマイクロフィルムから、その事件を取材した記事に接し得るはずです。大正11年〜14年の岩手日報の記事を渉猟したところ、盛岡地裁で裁判された興味深い冤罪事件の記事がみつかったのです。

 ■文語詩「秘境」の定稿(「未定稿」収録)
 
  漢子称して秘処といふ
  その崖上にたどりしに
  樺柏に囲まれて
  はうきだけこそうち群れぬ
 
  漢子首巾をきと結ひて
  黄ばめるものは熟したり
  なはそを集へわれはたゞ
  白きを得んと気おひ言ふ
 
  漢子が黒き双の脚
  大コムパスのさまなして
  草地の黄金をみだるれば
  峯の火口に風鳴りぬ
 
  漢子は を山と負ひ
  首巾をややにめぐらしつ
  東に青き野をのぞみ
  にと笑みにつゝ先立ちぬ


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