盛岡タイムス Web News 2011年 10月 17日 (月)

       

■ 〈大震災私記〉27 田村剛一 一変した町の風景

 大震災の3日目、町を焼き尽くした大火災も、一部の建物のくすぶりを残しほとんど鎮火した。町は、山田の面影を全く失ってしまったようだ。

  以前、よく上っては、町の素晴らしい風景を楽しんだ場所がある。町役場の屋上。ここから素晴らしい町の風景が一望できた。海の十和田湖と言われる山田湾が眺望できたからだ。

  その屋上に上り、町の風景を目にした瞬間、その変わりように茫然(ぼうぜん)自失した。町役場に通ずる道路の右側は、見わたす限りの焼け野原。石蔵や土蔵、焼け残った鉄骨は無惨な姿で残り、他の建物は全て焼け落ち、町はその焼け落ちたトタン屋根で完全に覆われていた。

  「津波で残ったのに、火事で無くなった」。そう嘆き悲しむ何人もの人に会った。津波に備え、大事なものを2階に上げ、それから避難した人は多いはず。その人たちは、家が残ってほっとしたのもつかの間、その大事なものを家もろとも全て火事で失ってしまったのだ。このような人たちに、どう声をかけてよいのか困った。

  道路の左側に目を転ずると、右側とは違った風景が展開していた。鉄筋3階建ての建物だけが残り、その他の人家は見る影もない。ばらばらに壊れ、家の形を残していない家、他人の家に寄りかかり壊れかかっている家、1階がつぶれ、2階だけが残っている家、いずれにしても波に流されて元の場所にない。

  完全に焼け落ちた家と壊れたが残った家とを見比べて思ったこと。少しでも家の形が残っていると、何か大切なものの一つや二つは見つけることができるのではないか。それに比べ、焼け落ちた家には何もないかもしれない。

  目を遠く海に転じた。何と、寒むざむとした海か。今まで山田湾を見てそう感じたことはない。山田湾は、海の十和田湖とか三陸の湘南海岸と言われ、波静かで暖かい海と言われてきた。台風や大嵐の時には、三陸沖を航行する貨物船や漁船が避難港として利用し、時化(しけ)の収まるのを待って出港していた。そんな静かで美しい湾であった。

  そして、この静かで美しい湾を利用して、カキやホタテの養殖が盛んに行われ、岩手県一の養殖の町となっていた。幾何学模様に並ぶ養殖いかだは、自然美と人工美がうまく調和し、山田独特の風物詩をつくり上げていた。

  その養殖いかだもほとんど姿を消し、美しい風物詩も失われた。大津波は一瞬にして、町の風景を変えてしまったのだ。あののどかな港町の風景。戻る日がくるのかどうか。
(山田町)

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