盛岡タイムス Web News 2011年 10月 18日 (火)

       

■ 〈大震災私記〉28 田村剛一 暗黒の世界

 地震で電線や電話線が大きく波打った時には、もしかすると、これは電気は停電、電話は不通になるのではないかと思った。家に帰りつくと、テレビがついていたので、ほっとした。それから、また地震があって、テレビがぷつっと切れた。心配した通り停電になったのだ。

  その後の津波で、道路や鉄道は寸断され不通になった。水道も水源地が破壊されて断水。その上、商店街も壊滅。一番頼りにしていた携帯電話まで使用不能になってしまった。ライフラインは完全に壊滅し、私の町は、陸の孤島と化してしまった。

  当日の夜にして、これほど文明の利器、近代の科学技術がもこんなにも災害に弱いのかということを思い知らされた災害はないのではないか。

  震災の夜、避難所に行けば、明かりも暖房もあるものと思って向かったが、役場職員が、懐中電灯で、足元を照らすのを見て、私の考えが甘かったことに気づいた。文明の利器はどこにもない。

  避難している人でいっぱいのコミセン和室。暗くて人の顔が見えない。広い部屋には、石油ストーブが2台置かれ、その周りに人々が集まっている。ストーブの火の光で、人の顔がやっと見えるくらい。ヒーターは使えない。

  それでも、避難所に指定されている場所はまだよい。そこには、何がしかの電灯やストーブ、毛布、食料が用意されているからだ。わずかの光は、ここに用意された懐中電灯やろうそくによるものだったのだ。

  燃えさかる火がコミセンにも近づいて来たので、人々の動きで騒がしくなってきた。危険を察知して移動を始める人も出始めたからだ。私もその一人だった。

  私は94歳の老母をおいの家に移すことにした。JRの線路を押し車で渡らなければならない。私の防災用手動式電灯を手で回しながら老母の足元を照らした。ほんのわずかな光であったがこれで救われた。周りには光を発するものは何一つなかったからだ。

  光がないと、人間は完全に行動の自由を失う。光がないと、人は隣の家にも行けないのではないか。だから光を求める。少しの光でも光があれば人は動けるからだ。

  この日から懐中電灯やろうそくの光が貴重な光になった。その光も電池やろうそくが不足し、車のヘッドライトだけがまぶしくなった。そのヘッドライトもガソリン不足で消えて行く。94歳になる母は、暗闇を眺め「まるで戦時の灯火統制だ」と言った。
(山田町)


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