盛岡タイムス Web News 2011年 10月 20日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉30 田村剛一 音信不通2

 外部との音信が取れるようになったのは、内陸の病院に勤めるおいが、13日の月曜日に帰宅してからのことだ。それまで、わたしたちの無事を伝えるすべはなかった。

  この頃から、ガソリン不足が深刻になってきた。ガソリンを確保するためガソリンスタンド2店に並んだという。何せ、往復分のガソリンを確保しないと、勤務地に戻れなくなる。それで、土曜日にガソリンを確保し、日曜日に帰って来たのだ。

  おいの方は沿岸の事情を知らない。それで、花巻から釜石に向かった。釜石から大槌を通って山田へ、いつも取るコースを考え出発した。ところが、遠野で検問にひっかかり、釜石への道は不通と教えられ、遠野から川井に抜けることにした。川井からは宮古の花輪を通り豊間根、さらには山田の内野、関口を通って家にたどり着いたのだ。

  「こんなにひどいとは思わなかった」。津波や災害の状況、そして、自分の子どもが間一髪よその家に逃げ込んで助かったことを知り、そう言って嘆息した。

  そのおいも、家に着いて何時間もしないうちに「帰る」と言い出した。実は、そのおいの所に、東京、新潟、山形、神奈川に住むおいの妻の実家やおばなどから、わたしたちの安否を問う電話が何本も入っていたのだ。

  「早くみんなを安心させなければ…」という。

  ここにいては、無事であることを連絡することはできない。「早くみんなに知らせ、安心させてやりたい」そう言ってトンボ帰りに引き返して行った。

  その後について、おいの行動は知る由もないが、後日談によって分かったこと。すぐに東京に住むおば、わたしにとっては妹、そこに、自分の両親と、そして、わたしの家族が無事であることを電話で報告。わたしの二男にも連絡を入れた。

  わたしの妹から、山形や神奈川の妹たち、それとわたしの妻の妹の所にも電話を入れた。その妻の妹から妻の弟妹へ、さらに、妻の親戚へと無事の知らせは伝えられた。

  わたしたちは全く知らなかったが、わたしの妹や息子たち、そして妻の弟妹たちには、震災後4日目ぐらいまでには、わたしたちの無事は伝えられていたようだ。しかし、友人、知人には、その伝達方法がなく、テレビに映る沿岸の惨状を見て「田村は駄目かもしれない」、そう思った人間は多かったという。

  その頃から、ラジオに、終戦直後を思わすような「たずね人」が登場した。
  (山田町)

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