盛岡タイムス Web News 2011年 10月 26日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉252 伊藤幸子 あどかあがせん

 児もち山若かへるでの黄
  葉(もみづ)まで寝もと
  吾は思ふ汝は何どか思ふ 万葉集東歌

 
  下句の読みは「ねもとわはもふ なはあどかもふ」一首声に出して読んでみると、なんともいえない調べのよさに心がほぐれてゆく。「児持山」は群馬県伊香保温泉から見える山。意味は「あの児持山のカエデの若葉が秋になって黄葉するころまでも、お前といっしょに寝ようと思うが、お前はどう思う?」と問いかける歌。「寝もと吾は思ふ」は如何にも率直だけれど、名のある貴族や君達(きんだち)の技巧に飾られた歌よりもすんなり心にひびいてくる。

  「上毛野(かみつけぬ)あその真麻(まそ)むらかき抱き寝れど飽かぬをあどかあがせむ」同じく作者未詳の東歌。上毛野の麻群を刈りとったものを抱きかかえて運ぶ労働のさまが思われる。麻はいわゆる麻薬気も少しあり、昔はうちの辺りでも栽培されていた。刈り口がみずみずしいと何となく酔うようだといわれたものだ。背丈を越す麻のたばは、さながら人間の胴ほどの太さになり、さかんな陽光の中、甘やかな香りに包まれると「あどかあがせむ(どうしたらいいんだろう)」とつぶやきたくなるのもうなずける。

  今は麻を見ることもなくなった。あのなまぐさいような生薬のような香りは、今どこかの植物園ででもめぐりあったらハッと気付くだろうか。麻を刈り、繊維をとるためにしばらくの間苗代に漬けて腐食させたようだ。処々断片的な幼児期の記憶に、つむいだ糸を入れるカゴを「オボケ」といっていた。それがおかしくて、糸を口にくわえて両手であやとりをするようにオボケにためてゆく母たちの作業をあかず眺めていたものだ。

  すっかり忘れていた光景が、万葉の歌の中に描かれていた。「麻苧(あさを)らを麻笥(をけ)にふすさにうまずとも明日きせさめやいざせ小床(をどこ)に」ことばがむずかしいけれど「をけ」という道具は古語辞典に図解されている。糸をよりあわせて口から吐く作業を「績(う)む」というともある。歌意は「麻苧をそんなにふすさに(いっぱい)つむがなくても、明日が来ないのではないから、さあ床に入ろうよ」と若い心が弾む。「きせさめや」は諸説「来」と「着」の解釈がまじっている。

  「秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも」こちらは柿本人麿の、妻の死を悼む挽歌。意は秋山の黄葉があまり茂っているので、迷い入ってしまった。恋しい妻を尋ねゆくにも道がわからないと嘆く歌。死んで葬られることを秋山に入るとする観念が哀切だ。現世も、生あればこそ、紅葉狩のふみでもくれば「あどかあがせむ」、山道知らずも|。

(八幡平市、歌人)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします