盛岡タイムス Web News 2011年 10月 27日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉42 通巻34冊「とぎれいと」 わが赤き糸は17日にとぎれた

 通巻第三十四冊「とぎれいと」は、明治41年元日から1月31日の日記である。はしがきとして次のような文章が書かれている。
 
      はしがき
   吾赤きいとハ十七にちにとぎれた、と
   ぎれたと知らぬ前に已にとぎれておつ
   たのだからいかんともしやうがない、
   一もとの糸をこそとぎれたといへ、も
   とより一もとの糸にあらぬわれとかれ
   の、これをとぎれたといふ、とぎれた
   ともいひえぬ身ぞかなしけれ
   とぎれたりとぎれたり、このかなしみ
   只吾友武蔵君之を知る、
   焼くべき日記を焼かぢ、後のために吾
   恥を残す、恥を人に語るとき、恥ハ詩
   と成る、吾恥の詩と成れとて
        二十五日かいつく
             たたらやまひと
  
  この“はしがき”を読めば春又春の恋の結末を知ることになってしまうのだが、1日から31日の日記を一冊にまとめるにあたって、その序にしたためにこのような体裁になってしまったのである。
 
  実はこの恋の道行きを追いかける前に、春又春に叔父・寅三郎によってもたらされたもう一つの出来事をみていくことにしたい。
 
   (一月十三日)
   昨日下の橋の叔父来、問題ハここに始
   まる、叔父語る、今度母や私や相談の
   上で、山陰のお豊さんを貰ふことにし
   た、どうか貰つてハ呉れまいか云々、
   余は言下に之を断つた、断はらぬと余
   は日記を焼かかねバならぬ、日記を焼
   く時余は已に詩を解するの人でない、
   君之を知るや、君にハ未だこれ話さな
   かつた、嘗て之を日記にして曰く戀を
   歌によむ時、戀ハ詩と成る、戀が詩に
   成らぬバこそ、戀に煩ふの人と成る、
   意中の人語るの時ハ吾戀の破れた時、
   破れた戀を歌によむ時、吾恋は詩とな
   る、戀成らハ歌つくらじともありなむ、
   ひそかに思ふ、余ハ歌つくるの人たら
   むか、歌成し時ハ成らぬ恋に泣くの時
   である、云々、而して今や君に之を話
   さねばならぬ時と成つた、母や親戚ハ
   甚だ之を急いで居る、お豊さんなれハ
   氣心も知れてるから云々、余が一言の
   断などにてハその意見をひるがへしそ
   うにもない、(略)
  
  この文は、無二の親友・武蔵孝吉(号:東光・痩枝)への手紙の下書きあるいは控えとして書かれたものである。その内容は、叔父・寅三郎と母の間で相談し、山陰に住む母の姉の子供の“お豊”との婚姻を勧められているが、一人では断りきれないし、断る理由の最大の理由が意中の女性がいるからだと自分の口からは言い出せないので、親友の武蔵君からそのことを言ってもらって諦めさせてはもらえないかという主旨である。

  意中の人については武蔵にも話していなかったが、事が差し迫っているのでその女性に自分の思いも伝えてもらいたいと願ってもいる。

  さて、その意中の女性とは前々回話題にした“楷書の人”のことである。
 
   春や昔、余ハ初めて角帯の身に成つて、
   店頭客に座した、或日一女学生あり家
   事提要を購いに来た、嘗て世上の婦人
   に対す、未だその美といふを思ハなか
   つた、されど眼中一理想的の顔貌を描
   きつゝあつた、余が美とするハかくの
   如きの顔、余が理想とするハかくの如
   きの容との一標準を持(つ)て居た、
   然るに何の因ぞ、この容ハ寸分の差も
   無く、余が理想中の顔貌を有して居る、
   余ハ全身水を浴びたやうに慄然とし
   た、爾来三年未だ嘗てこの顔容髣髴余
   が眼中胸裏を去らぬ、実にすまぬが君
   に之を頼む、君之を下の橋の吾叔父に
   伝へてハ呉れまじや、愚友庄太郎(春
   又春の幼名)一女児に懸想すと、書い
   て茲に至る、君に対して之を語る、慚
   愧堪えぬ、(略)
 
  明治38年4月に祖父・3代目庄兵衛が亡くなり、4代目庄兵衛が跡を引き継ぐのだが、3代目庄兵衛の陰になっていたために商売人としてはいささか心許ないこともあって、遊学中の春又春が実家に呼び寄せられている。そして、早速店頭に出て客に対応していたのである。

  その客として訪れた女学生が意中の人つまり楷書の人であったのである。しかし、3年もの間胸に秘めていて表に出ることはなかった。もちろん親友の武蔵孝吉にさえも明かすことはなかったのだ。

  恋の目覚めが22・23歳というのはかなり奥手といえるだろう。あるいは鍛冶町の店頭でくだんの女性をみかけることがなければ、春又春の恋の始まりはもっと遅かったのかもしれない。それほど女性に対する興味・関心が低かったのである。

  淡い恋に拍車をかけたのが叔父・寅三郎と母によるお豊さんとの縁談であった。もう躊躇(ちゅうちょ)はできない。が、自分からはかの女性に告白することはできない。窮余の一策として考え出したのが武蔵孝吉に縋(すが)りつくことであった。

  そして、この恋の結末は“はしがき”に書かれような結果に終わったわけである。16日に武蔵孝吉は鍛冶町の店に出かけて行っている。ただ、日記には17日の記述はなく、どのような経緯で途切れたとしたのかはよく分からない。

  「とぎれたと知らぬ前に已にとぎれておった」とあるから、すでに楷書の人には婚約者がいたのではないかと思われ、花嫁修業のために家事提要(意:家事入門)を購入したのではなかっただろうか。

  18日の日記は、短歌が二首掲載されているのみである。
 
   歌にしてこいしきひとを歌にしてかな
   しきひとと今ハなりたり
   繪の中の君と思ひしをうつそみの人に
   て君ハありといふかも
 
  次回は山陰のお豊さんとの縁談のなりゆきについてふれたい。


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