盛岡タイムス Web News 2011年 10月 27日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉36 田村剛一 自衛隊の活動2

 人命救助が主要な任務であった自衛隊の捜索も、時がたつにつれ、遺体捜索に移っていった。家の前の道路が開通したとたんに視界が開けた。それと同時に目に入ったのは、自衛隊員の姿の多いことであった。

  がれき撤去の重機作業を指示する隊員、重機が取り除いたがれきの後を真剣な目でのぞき込む何人かの隊員。明らかに、遺体を探していることが分かった。

  家の前の道路が開通すると、「区長さんですか」と言って、私の所を訪ねて来た隊員がいる。私は区長ではない。その頃、被災地区の区長は、全員避難所生活で不在。その区長とは大津波を水天宮の所から一緒に眺めた時以来会っていない。会いたいと思っても、どの避難所にいるか分からないからだ。

  「私は、防災会の会長です」と言うと、「この地区の捜索を担当することになりました」と言って名前を名乗った。

  「この地区で、行方不明になられた方々は、この通りでしょうか」。示された名前の一覧表を見て、行方不明になったことを知らない人が2人いた。亡くなった人も含め20人。遺体の見つかった人もいれば、まだ見つからない人もいた。

  「この人たちを見かけた最後はどうだったのでしょうね」と行方不明の一人ひとりについて聞く。残念ながら私は、亡くなった人や行方不明になった人とは、津波直前には会っていない。ただ、何人かについては、周りの人から聞いているので、その話をした。私の聞いた3人は、津波直前に家に戻った人だ。

  「家についてから津波に遭ったのでしょうかね」。そのへんが聞きたかったようだ。家の中で津波に遭ったとすれば、家の中か、その周辺に遺体のある可能性がある。家以外の所であったとすれば、海に流された可能性もある。最後の状況を聞くため、私の所に来たようだ。

  私たちの愛宕地区自主防災会は、中央町と後楽町が構成メンバー。旧町名では、寺小路、荒浜木、三日町。寺小路が後楽町に、荒浜木、三日町が中央町に名を変えた。昔、青年会が一緒だったので、その時、青年会が使った愛宕という名を借りたのだ。

  自衛隊の地区指揮官は、遺体が発見されるたびに、私の所に連絡してくれた。道路端で2人見つかった。1人は同級生、もう1人は面識のないよその人であった。

  指揮官は、何日かで交代した。交代するたびに、あいさつに来た。地区の秩序が保てたのは、自衛隊員のおかげもあるなと思っている。
(山田町)


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