盛岡タイムス Web News 2011年 11月 5日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉236 岡澤敏男 岩手山麓の小農民の原像

 ■岩手山麓の小農民の原像

  青少年期の賢治文学が岩手山麓を舞台に多彩な作品群を開花させたのは、岩手山への〈お山掛け〉を縦軸に盛岡中学時代の〈石(鉱石)採集〉・盛岡高農時代の地質調査を横軸にして山麓一帯を跛渉して過ごした青春の絢爛たる座標と理解されます。

  賢治の文学は短歌で始まり、「明治四十四年一月」と表題した「歌稿A」の巻頭に次の一首が置かれている。
 
  み裾野は雲低く垂れすゞ
  らんの白き花咲き
  はなち駒あり
 
  この歌は前年(43年)の6月、博物の山県先生の引率で初めて岩手山へ登山したときの情景を回想して詠んだ作品とみられる。榊昌子氏は賢治文学の原点であるこの短歌の位置を次のように評価しています。

  「岩手山とその山麓が、賢治の文学世界を豊かに育むことになる先触れのような短歌である。しかし、この地で賢治が出会ったのは豊かな自然ばかりではない。そこに生きる人々との邂逅もまた、その文学を奥行きのあるものにしたのである。」(『宮沢賢治「春と修羅第二集の風景』)
 
  わたくしは森やのはらのこひびと
  蘆のあひだをがさがさ行けば
  つつましく折られたみどりいろの通信は
  いつかぽけつとにはひつてゐるし
  はやしのくらいとこをあるいてゐると
  三日月がたのくちびるのあとで
  肱やずぼんがいつぱいになる
  (『春と修羅』一本木野)
 
  風光いっぱいの山麓、賢治は柳沢や一本木原を歩行しながら自然と交感して青い修羅のかなしみを放下する一方で、猫の額ほどの畑にしがみつく小農民が秋には豊かに稔るブンド(野葡萄)やハギボダシ(ほうきたけ)を狂喜して採取する風俗を作品に取込んでいるのです。

  なお〈岩手山産マツタケ〉は中央市場で特上品の銘柄で取引されているが、大正期の柳沢の旅館では泊り客にマツタケを焼いてもてなしていたらしい。「ばあさんもゆふべきのこを焼いて/ぼくにいろいろくどいたですよ」と、〔うとうとするとひやりとくる〕(大正13年10月26日)の詩にみられる。

  賢治はそうした小農民に邂逅したのは大正6年10月下旬で、弟清六や従兄弟を連れてお山掛けをするために柳沢の旅館で夕食・仮眠をとったときのこと。夜遅く隣の客の部屋に手作りのブドウ酒を持参して小農民が訪ねてきたのです。

  賢治は仕切越しに隣の客と小農民が交わす会話の一部始終を盗み聞きしたらしい。その対話の情景が大正9年に書かれた短篇『柳沢』に挿入され、さらにこの対話の部分を改作し詩篇〔うとうとするとひやりとくる〕につながったと言われます。

  賢治が小農民の素姓を「旭川の兵隊上り」と見抜いたのは首に巻いた「欝金」のマフラーによるものです。「ポランの広場」(「ポラーノ広場」の先駆形)でファゼロに騎兵のような赤いズボンに「黄のすぢ」を入れるよう指示させており、欝金(黄色)が騎兵の標識とみなしていたらしい。このように欝金のマフラーを首に巻く「旭川の兵隊上り」が岩手山麓で邂逅した小農民の原像でその後の作品に転生させていくのです。

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