盛岡タイムス Web News 2011年 11月 7日 (月)

       

■ 〈昭和20年代の盛岡とその後〉8 和井内和夫 17館あった映画館

 盛岡が映画の街と言われるようになったのは、単に映画館の数が多いためだけではないと思うが、ある時期映画館が多かったのも事実である。

  河南地区には、芝居小屋から変わった衆楽座改め国劇・後にストリップ劇場になった南東映・御園・明治橋近くの第一文化と第二文化の5館、河北地区には、老舗内丸・盛岡で最初に新式映写設備を導入した中劇・第一(東宝)・日活・松竹・オフィスビルを引き屋として改築した中央ホール・東映・長町銀映の8館、さらに北上川の西には、駅前地下・夕顔瀬東映、そして新興街青山町の青山劇場と青葉の4館と、合計17館もが営業していた時期があった。

  それは昭和30年前後の頃である。人口比とかを言うまでもなく当時人口が盛岡の倍以上はあった仙台でもせいぜい20館を越すぐらいだったので、この点からすれば当時の盛岡も映画の街と言ってもいいであろう。

  上記のほかに、それらの館と同じ時期に営業はしていなかったと思われるが、河南地区にミカサと第一日活館があった。ミカサは戦前は休館していたが、戦後はダンスホールに変わり、ずいぶんはやったものである。

  その後一時、映画館(最初は明治座後でセントラル)に戻ったが、それはそう長い期間ではなく間もなく閉館した。

  第一日活館の方は戦前から戦争中を経て戦後まで映画館として営業していたが、戦後しばらくして建物はそのままでダンスホールになり、数年して建物を改造して2階はキャバレー、1階はビリヤードになったが、ビリヤードの期間は短くその後小さな飲み屋街になった。

  現在盛岡の映画館は大通地区に集中し、また映画に関するいろいろなイベントが定期的に行われようになり、「映画の街」と言われるようになってから大分経つが、その前の時代にも盛岡が映画の街と言われた時期があったのである。

  ただし、映画館と“街の繁盛=盛り”の関係が変わってきたように思う。かつてはどこの都市でも集客力という意味で商店街の中心的存在で、わたしたち戦中派にとって繁華街あるいは盛り場という言葉は、商店街プラス映画館を含んだ意味であったが、今の映画館にはその力はなくなったようである。やはりテレビの登場とその内容の充実、あるいは娯楽・行楽の多様化などの影響によるものであろうか。

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