盛岡タイムス Web News 2011年 11月 10日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉45 田村剛一 友を送る

 知人のアパートに入るのは初めて。引き出しを開けると、手紙の入っている箱が出てきた。その中に年賀状があった。その1枚が新潟からのもの。姓が知人と同じ。きょうだいがいることは聞いていたので、あるいはその兄かもしれない。そこに電話を入れた。

  「正夫は亡くなりましたか」。やはり知人の兄であった。「身元確認のため、おいで願えないでしょうか」。

  今までの経過を話ながら、身元確認には肉親が必要であることを告げた。「すぐ、参りますから」。兄の言葉であった。すぐといっても、相手は遠方の新潟。「そちらに着くのは明日になりますが…」。それは承知した。

  私の携帯は通じないので、同行した知人の携帯に山田に来る時間を連絡してもらうことにした。

  山田に着いたのは、午前10時少し前だったように記憶している。役場前で待ち合わせ。そこから、遺体安置所になっている山田中学校の体育館に向かった。そこで、遺体と対面。「弟に間違いありません」。兄と姉2人の証言で身元が確認された。その足で役場に戻った。

  「火葬は、24日宮古斎場を予約していますが、もし。新潟でなさるなら…」と役場職員が言うと、「こちらでお願いします」となった。山田の斎場は混んでいて宮古になったのだ。

  役場が済んだ後、アパートの家主から鍵を借り、新潟のきょうだいたち3人でアパートに案内した。

  きょうだい2人は高齢だったので、兄の子つまりは亡くなった知人のおいが運転手として同行していた。

  アパートで知人と私の関係を話した後、24日午後1時に旧山田病院前で会うことにして別れた。棺に入れられた遺体は、旧山田病院に安置され、そこから出棺されることになっていたからだ。

  24日会った時には、メンバーが2人増していた。めいとおいが新たに加わっていた。1時に出棺し、宮古の斎場に向かった。山田からの同行者は私1人だけ。斎場は混んでいて人数制限があった。

  山田斎場は5人以内、宮古はそれほど厳しくなかったが、近親者のみというのは変らなかった。斎場に着くと、それでも、知人の属していた「三味線と民謡の会」の人たちが待っていてくれた。

  火葬が終わると、捨骨してすぐに新潟の人たちは帰ることになっていた。7人ほど見送る中、友人の遺骨を乗せた車は出発した。私は車が見えなくなるまで手を合わせ、車を見送った。

  6月、元気で新潟に帰るはずであった友人は今、骨となって帰っていく。こんな形で友人を見送ろうとは、まったく予想していなかったことである。
  (山田町)



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします