盛岡タイムス Web News 2011年 11月 13日 (日)

       

■ 〈大震災私記〉47 田村剛一 無料電話2

 岐阜にいる息子と久慈にいる息子2人には妻が電話を入れた。実際、電話に出たのは息子の嫁。私は心配していると思われる友人や知人、教え子に入れた。

  最初に電話で無事を伝えたのが、東京に住む学生時代の友人。この友人に電話を入れておけば、毎年集まっている友人5人には、すぐに連絡を入れてくれるはず。そう思ったからだ。それから史学科の同期生の友人へ。

  教師仲間であった人たちも心配しているはず。それで、教職員組合にも電話を入れた。

  それから、金沢の教え子。私は大学時代、卒業後1年大学に残った。そのための学費稼ぎをしなければならなかった。その時、大学教授から紹介されたのが、ミッションスクール、北陸学院講師。その時の教え子、当時3年生、18歳の女子高生。美女と野獣と教師仲間(?)には陰口をたたかれたが、不思議に生徒とはウマが合った。この生徒には人文地理を教えたが、生徒たちの卒業と同時に、私も岩手に帰った。

  時折、金沢を訪ねることがある。幹事役の教え子に連絡すると、必ず教え子たちが集まってくれる。私が金沢に行くとクラス会を開く。その時、担任を招待するのだ。

  「田村さんは幸せ者ですよ。担任でもないのに、こうして生徒たちが集まるんですから」。後に校長になるクラス担任からそう言われたことがある。あのうら若き乙女たちも、今や70歳を目前にしている。その教え子たちに連絡せねばと思った。

  「生きているよ」と電話を入れると「先生が生きていることは、友人から聞いてました」。友人の娘が必死にインターネットで探したという。

  「みんなに募金を働きかけていますので、集まったら送りますから」。何とも気の早い連中だ。でも、その心根がうれしい。

  そして、もう一人、何ともしても連絡しなければならない人がいた。友人の手紙に「東京の斉藤さん」とあった人。実はこの人、私の安否を尋ね読売新聞に私の名を載せてくれた。それを見た新潟に住む妻の従妹が妻の妹に連絡し、そこから、読売新聞社を通じ、彼女に無事を連絡することができたのだ。

  私は同期生の斉藤さんを知るようになったのは5年前。東京で高校時代の同期会があった時が初めて。それまで全く面識がなかった。無事の電話を入れると「よかった」と言って喜んでくれた。高校時代、仲のよい友人であっても、今は全くの他人になっている者もいれば、ほんの少し前に知り合ったのに、旧知の友のように心配してくれた人もいる。人さまざまである。
(山田町)


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