盛岡タイムス Web News 2011年 11月 19日 (土)

       

■ 〈大震災私記〉52 田村剛一 支援物資1

 町の商店街は、津波とその後の火災で一軒も残らず消滅した。町が消えるとは、こんなことだったのか。改めて、津波の恐ろしさ怖さを実感した。

  食料も水も衣類も、町内で手に入れることはできなくなった。町民は、被災者も、被災を受けなかった者も、支援物資に頼るしか生きるすべはなかった。その意味では、沿岸住民は全て被災者ということがいえる。

  私の地区では、支援物資の支給は、翌日の午後から始まったように記憶している。私も最初の頃は、保険センター前で、支援物資をもらった。おにぎり1個、カップメン1個、水ペットボトル1本。おいの家とはいえ、自分の食べる物は自分で確保しなければならなかったからだ。

  しかし、支援物資をもらう列に長く並ぶことはできなかった。多いときには700人ぐらい並んだという。並んでいる人たちの目に、声にならない声を感じたからだ。「教師をした人が物をもらっている」「議員をしたのに…」。独りよがりだったかもしれないが、そんな顔であった。

  でも、自分の食べる分だけは確保しなければ…。私が列に加わることはやめたが、おいの所に世話になっている間は、妻に並んでもらい、私の分までもらうことにした。家に戻ってからは、妻も並ぶことをやめた。それができたのも、友人や教え子たちから、支援物資が送られてきたからだ。

  実は、支援物資をもらう列に加わって、感じたことが一つあった。それは「さすが日本人」との思いである。だれ一人、列に割り込む人がいなかったことだ。われ先にと、手を出す人もいなかった。与えられるものを静かに受け取る、そんな感じだった。

  私への個人的支援物資の第1号は、初任校である一関二高時代の教え子。この教え子には一番最初に無事の連絡をした。退職以来毎年山に登っている山仲間、その幹事役だったからだ。彼に連絡すれば、みんなに、私の無事を伝えてくれるだろうと思ったからだ。

  3月26日、教え子と奥さん、それに、教え子の友人である自動車整備工場の社長、3人が突然顔を出した。

  「ガソリンを手に入れるのが大変でした」。恐らく、友人の社長が工面してくれたのだろう。

  車から降ろしたのは、30`入りの米2袋と天然水素水10箱。米は2人からのもの。水は山仲間の教え子から預かってきたものであった。「これでしばらくは命をつなげる」と思った。今回ほど、教え子に助けられたと思ったことはない。水は近くの人たちにも分けてやった。

(山田町)


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