盛岡タイムス Web News 2011年 11月 19日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉237 岡澤敏男 柳沢の男の終いの姿

 ■柳沢の男の終いの姿

  大正6年10月に弟たちを連れて泊まった柳沢の宿は6月頃新築したばかりの通称「岩鷲ホテル」にほぼ間違いないとみられる。このホテルは、7月3日に岩手山神社の県社昇格報告祭に合わせて社務所の向かいに新築された宿で、岩手日報(7月5日付)に「開闢以来の二階建で万屋兼業の旅館である」と報じられている。

  短篇「柳沢」に「一寸来ない間に社務所の向ひに立派な宿ができた」と述べてあり、その宿屋へ賢治たちは「こんや、二時まで泊めて下さい」と草鞋を脱ぎ、さらに「誰かがどしどし梯子をふんでやって来る」と述べてあるので、泊まった宿は柳沢で唯一の二階屋である「岩鷲ホテル」と特定してよいのでしょう。

  ところが岩手山神社の昇格報告祭の行事が終わった7月末、岩鷲ホテルのマスターT氏は近くの沼から獲ったヌマガイを食べて中毒死したので、賢治らが宿に泊まったとき宿を切り盛りしていたのはおかみのYさんでした。

  そのおかみさんが、その翌年(大正8年)7月19日午前5時頃に内縁の夫と称する男に鎌で寝首をかかれるという悲惨な事件に巻き込まれたのです。

  新聞は「滝沢の女房殺し」の大活字で報じ詳細な内容が連日載ったので、被害者を知る賢治にとっては衝撃的であるとともに忘れ得ぬ事件として記憶されたのでしょう。

  妹シゲさんが「何年かしてから、アソコの宿のおかみさんが殺されたよ」(森荘已池著『宮沢賢治の肖像』)と賢治が語ったという。たぶん「殺されかかった」と言ったのでしょう。被害者おかみさんは、喉の気管を切断される重傷だったが岩手病院での手術が成功して辛うじて一命を取り留めたのです。

  新聞によると加害者のTは大更生まれの前科一犯で、北海道の樺戸集治監で10年ほど服役したという。樺戸集治監といえば旭川の近くにある刑務所だから、恩赦によって放免され郷里に戻ったTは「旭川の樺戸集治監上がり」の男と言ってよいのです。

  Tは前科を隠して温順を装い、柳沢の旅館のおかみさんに言い寄って入り婿になったという。やがてTの前科がばれ手切金をせしめて別れたが、また舞い戻り同棲したが冷たい処遇に逆切れして犯行におよんだものだという。

  その5年後の大正13年に発想された詩篇〔うとうとするとひやりとくる〕の寅吉は「兵隊上り」から「樺戸集治監上り」に転生させた「柳沢の宿の男」だったとみられます。この詩では旅館の「ひとみ黄いろのくはしめ」の養女に言い寄る男で、「畑に放牧馬を追い込み馬主より弁償を詐取する」小悪党として描かれているが、前科者の強引な押しに根負けし夫婦として同棲するのを宿のばあさんも黙認したのでしょう。

  賢治晩年の文語詩〔そのとき酒代つくると〕(「文語詩稿 五十篇」)にその消息が看取されます。男は夫となり放牧馬を盗んでは酒代にする悪党に、妻は夫の目を盗んで密夫に通う浮気な女に転生させているのです。

  この女は「重瞳の妻」と形容している。重瞳とは「一つの目に二つのひとみがあること。貴人の相」と広辞苑にあるがイメージが「ひとみ黄いろなくはしめ」と通じており、旅館の養女からの転生形と思われます。

  〔このとき酒代つくると〕には「柳沢」と題名した2篇の先駆形(A・B)があり、定稿に至るまで推敲に要した時間の経過がわかる。その先駆稿Bをコラム欄に掲げておきます。


  ■文語詩〔そのとき酒代つくると〕先駆稿B

     (ちくま文庫「宮沢賢治全集 4」
      による)野馬盗りて畑を食ましめ
 
酒の代つくると人は
枝しげき小松をわけて
夜風鳴る裾野に出でぬ
 
重瞳のその妻はしも
はやくまた暗を奔りて
みそかをの戸や叩くらん
そこにたゞ杉のみくろし
 
焼岩のけしきたゝずみ
とゞろくは柏の群か
馬はみな泉を去りて
山ちかくうちつどふらし
 
野のはてのわづかに明き
黒雲のひたに馳すれば
あゝあらき風のなかにも
さはしぎのよばひて鳴らす


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします