盛岡タイムス Web News 2011年 11月 20日 (日)

       

■  「厨川柵」遺構は見つからず 里舘遺跡で現地説明会

     
  15、16世紀の竪穴建物跡、柱穴の見つかった里館遺跡の第53次調査地(北側から撮影、写真奥は天昌寺)  
   15、16世紀の竪穴建物跡、柱穴の見つかった里館遺跡の第53次調査地(北側から撮影、写真奥は天昌寺)  
  盛岡市教育委員会の里館(さたて)遺跡第53次発掘調査の現地説明会は19日、同市天昌寺町地内・天昌寺境内の現地で開かれた。駐車場造成などに伴う調査。その結果、15、16世紀の竪穴建物跡など中世の城跡と関連する遺構が見つかった。同遺跡の調査は1981(昭和56)年から開始している。安倍氏が築いた厨川柵に結びつく遺構などは、残念ながら今回も確認できなかった。

  今回は天昌寺の西側、面積約2100平方bを調査。遺構は▽中世の竪穴建物跡21棟▽古代の竪穴住居跡1棟▽近世の掘っ立て柱建物跡1棟▽中世から近世にかけての土坑跡45基、柱穴約1千口▽近世の溝3条▽縄文時代の落とし穴7基|が確認された。遺物は古銭や鉄製品、琥珀(こはく)原石などが少量出土した。

  里館遺跡は、天昌寺町、北天昌寺町、前九年2丁目にまたがる東西約670b、南北250から380bの規模が想定される。北東約1`には安倍館遺跡があり、いずれも今回の城跡に関連する遺構より以前に安倍氏が築いた古代城柵の厨川柵のあった場所ではないかと言われている。

  今回の調査地で竪穴建物や柱穴は北側に集中。建物跡は6棟以上が時期を変えて造られたとみられる。柱穴の数からも建て替えが繰り返されたと推定される。柱穴から考えられる建物跡は特定できなかった。これまで確認された城の堀跡などは見つからなかった。

  担当した佐々木亮二遺跡の学び館文化財主任は「竪穴建物の重複は長い時期に使用された場所だったことが分かる。街道筋の交通の要衝に長く存在したことを裏付ける。今回は調査開始以来の大規模な範囲で、これまでも個人住宅の建て替えなどで堀跡などを確認している」と説明した。

  城跡の成立は鎌倉時代から江戸時代前まで、特に戦国時代の時期とみられる。当時は工藤氏が支配していたという。周辺では1万2千年前の土器、天昌寺から盛岡駅方面には古墳も見つかっており、盛岡の歴史を語る上で重要な地区といえる。 

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