盛岡タイムス Web News 2011年 11月 26日 (土)

       

■ 〈大震災私記〉57 田村剛一 凄絶な光景2

 県の名勝に指定されている船越半島は、典型的な陸繋島である。かつては、山田湾と船越湾は狭い水道で結ばれていた。その沖合いに島があった。その水道に砂がたまり、その結果、陸と島が結びつき、今の船越半島が誕生した。かつて、水道であった部分に、潟湖「入江田沼」がその名残として残っている。

  明治の中期まで、船越の集落は、港と島を結んでいる砂州の部分にあった。

  ところが、明治29年の三陸大津波により、船越は全滅。大津波は、船越湾から襲い山田湾に抜けた。その時の犠牲者は、田の浜、大浦地区を含めて船越全体で1250人。人口が2295人だったから、人口の50%以上が死亡したことになる。

  これを教訓にして集落移転が計画され、船越、田の浜地区ともに高台に集落が移った。現国道45号の山手にある現在の船越地区がそれだ。その船越地区で唯一難を免れたのが、船越の住民の菩提寺海蔵寺だった。だがその海蔵寺も今回の津波で流され跡形もない。今回の津波の威力がいかに大きかったか、この一つを例にとっても分かる。そこに至るまでの光景がまた凄絶で悲惨。

  船越湾から入った津波が、山田湾から入ってきた津波とぶつかり浦の浜付近で、水柱が30b以上立ち上ったと言われる。その時の波で、浦の浜の防潮堤は根こそぎなぎ倒され、底を見せて転がっている。

  もっとも悲惨だったのは、浦の浜の少し高台にある老人介護施設「かろ」。ここの犠牲者は職員、入所者と合わせて80人を超えた。その中には、私のよく知る人も多くいた。

  その一人が事務長。長く町職員として役場に勤め、退職後施設の事務長になった。職員時代から亡くなる直前まで、親しくしてもらった一人である。

  犠牲になった職員の一人に、教え子の母親がいた。この教え子とは、山田高校のボート部で一緒。私が監督で教え子が選手として北海道国体に出場、網走まで遠征した。その関係もあり、母親と道で会うといつも声をかけ合っていた。その人が亡くなったのだ。

  入所者の一人、中学時代の担任の奥さん。担任が亡くなるまで、よく担任の家を訪問し、旧交を温めていた。その奥さんも亡くなった。

  施設の前に立って眺めた。2階の窓に、たくさんの船や車が突き刺さったまま。その光景を見て、これでは体の不自由な人や高齢者は逃げ切れなかったろうと思った。そんな人たちを何とか助けようとした職員たち。想像しただけでも胸が痛む。

  旧マリンパーク跡地には、いつもチューリップが咲く。ここにはがれき以外、何一つない。白い「海と鯨の科学館」だけがぽつんと建ち、その姿が逆に、悲惨な光景を浮き立たせているように見えた。周りは一面がれきの山だ。

  (山田町)

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